
心理しか書けないと思っていた。今は、台所の気持ちを考えている
公開しないまま眠っている心理エッセイが、山ほどある。
どれも、書いたときには相当な熱量があった。
けれど、書き終えると、自分の中では一区切りついてしまう。
時間が経ってから読み返しても、もう公開しようという気持ちになれない。
熟成肉なら寝かせるほど旨味が増すのだろうが、私の原稿は、なぜか私の中で鮮度を失っていく。
なんとも不経済な話である。
それでも、書かなければよかったとは思わない。
むしろ、書いてよかったと思っている。
どうやら私にとって、文章を書くことと、人に読んでもらうことは、必ずしも同じ目的ではないらしい。
noteを始めた頃、私は、自分には心理についてしか書けることがないと思っていた。
長い間、親との関係や、自分の心の問題に向き合うことに、人生の多くの時間を費やしてきた。
振り返ってみても、そこに使った時間はあまりに長い。
だから、いざ何かを書こうと思ったとき、それくらいしか材料がないような気がした。
最初は、心理学についての記事を書いていた。
それが少しずつ、自分の経験を交えた心理エッセイに変わっていった。
なぜ、あんなふうに考えていたのか。
どうして、あの場面でそう反応したのか。
自分なりに考えてきたことを文章にしてみると、それまで別々に存在していた記憶や考えが、つながることがあった。
もともと、自分の中にある程度の答えを持って書き始めることが多い。
けれど、書いているうちに、また別の問いが生まれる。
一つのことを考えているはずなのに、気づけば少し違う場所に立っている。
そんなことを繰り返してきた。
そして、いつの間にか、最初の頃とは違うものにも目が向くようになっていた。
最近、心の癖について考えていて、思うことがある。
人は、何か大きな出来事があったときだけ、心の癖を身につけるわけではないのだろう。
もちろん、育った環境や過去の経験が、その後の考え方や行動に影響することはある。
心理学を知ったことで、それまで理解できなかった自分の反応に、説明がついたこともたくさんあった。
周囲の人の言動についても、以前とは違う角度から見られるようになった。
その視点は、今でも私にとって大切なものだ。
けれど、パートナーや職場の人たちを見ていると、誰にでも、それぞれの考え方や行動の癖がある。
その人がどんな人生を歩んできたのか、私にはすべてわからない。
ただ、心の癖の強さと、経験した苦しさの大きさは、必ずしも比例しないのではないかと、以前から思っていた。
人は、生まれ持った気質に、日々の経験を積み重ねながら、それぞれの反応の仕方を身につけていくのだろう。
そんなことを、最近ますます考えるようになった。
我が家には、五頭の犬がいる。
同じ家で、同じように大切に育てていても、性格は驚くほど違う。
ヒナタは比較的素直だけれど、とにかく自分をかまえというアピールが激しい。
ハクも比較的素直。
ミルに至っては、難しいことなど考えず、毎日をひたすら楽しんでいるように見える。
そして、メイとラブ。
この二頭は、なかなか手強い。
メイは、散歩で自分の決めた道を絶対に譲らない。
違う道へ誘導しようものなら、全力で抵抗し、飼い主を睨みつけてくる。
家では、名前を呼んでも来ない。
かといって、放っておくと拗ねる。
どうやら、こちらから出向くのが正しい作法らしい。
一方のラブは、立派なお嬢様である。
自分の定位置をほかの犬に取られるのが大嫌い。
食事も、ほかの子たちと同じ扱いではお気に召さない。
散歩では、ほとんど歩かず抱っこを要求する。
自分が歩くのではない。
人間が自分を抱えて歩くものだと考えている節がある。
そんな五頭を見ていると、生まれ持った気質というものについて、考えさせられる。
そして、ふと思った。
私自身は、どうなのだろう。
私は長い間、人の顔色を読み、周囲に合わせて生きてきたと思っていた。
それは、確かにそうだった。
けれど、もし親との関係が違っていたとしても、私は太陽のように明るく、人の輪の中心にいるような人間にはならなかった気がする。
きっと、ひとりで空を眺めたり、頭の中で知らない世界をつくったりしていたのではないだろうか。
そういえば、小学生の頃、担任の先生から「わが道を行く」と言われたことがある。
褒められたわけでも、注意されたわけでもない。
ちょっと、おちょくられたような感じだった。
当時の私は、あんなに周囲に合わせていたつもりだったのに。
先日、パートナーに、我が家の五頭の中で誰がいちばん私に似ているか聞いてみた。
少し考えた末に、メイかラブだと言う。
どちらも、相当なマイペースである。
最終的にラブを選んだので、理由を聞いてみた。
「お嬢気質なところ」
らしい。
長年、自分についてあれこれ考えてきたつもりだった。
けれど、自分で思っている自分と、周囲から見えている自分は、案外違うのかもしれない。
そんなふうに自分を眺めているうちに、子どもの頃の不思議な景色を思い出した。
私は昔、雲に乗る方法を本気で考えていた。
山に登れば届くのだろうか。
でも、雲は気体のようなもののはずだ。
それなのに、なぜあんなにはっきり見えるのだろう。
そんなことを考えながら、想像の中では、もう雲に乗っていた。
ピアノを弾いていると、頭の中に景色や物語が浮かぶこともあった。
そんな記憶を、今度は文章にしてみたくなった。
子どもの頃の私には、今考えると、かなり現実離れしたものが見えていた。
けれど、大人になった今、どれだけ目を凝らしても、あの頃の妖気は見えない。
記憶には残っているのに、もう見ることのできない景色がある。
これを、ファンタジーにしてみたら面白いんじゃないだろうか。
そう思った。
エッセイなら、当時の出来事や、そのときの自分について説明することはできる。
でも、あの頃に見えていた世界そのものを描こうとすると、どうにもうまくいかない。
それなら、塔を建てて、魔法を使って、あの景色を物語の中につくってしまえばいい。
似た経験のない人にも、一つのファンタジーとして楽しんでもらえるかもしれない。
同じような境遇を経験した人なら、登場人物の中に、自分を重ねることもあるかもしれない。
そんなことを考えて、少しずつ書いている。
小説の話をすると、過去を振り返るのは大変でしょう、と心配してくれる人もいる。
その気持ちはありがたい。
けれど、実際の私は、今のところ、かなり楽しんでいる。
幼少期の出来事については、これまでに嫌というほど考えてきた。
今は、その頃のことを思い出しても、苦しくはない。
もちろん、あんなにひとりで頑張ってきた時間を、何かの形に残せたらいいという気持ちもある。
どんな経験であっても、何もなかったことにしてしまうのは、なんだかもったいない。
だからといって、あの経験があってよかったと思っているわけではない。
ただ、今の私には、それを物語の材料として使うことができる。
そして何より、頭の中にしかなかった世界が、文章になって外に現れることが面白い。
過去を整理するためというより、単純に、やってみたかったのだ。
そうして小説の表現を試しているうちに、今度は何でもない日常まで、違う角度から見えるようになってきた。
もともと私は、物を擬人化して考えるのが好きだった。
立派なキッチンは、ほとんど料理をしない二人をどう眺めているのだろう。
長年靴箱に眠っているピンヒールは、久しぶりに私に履かれたら、何を思うだろう。
恋愛ドラマに夢中になっているパートナーを、その腕に抱き寄せられた犬は、どんな気持ちで見ているのだろう。
そんなことを考えていると、何でもない暮らしの中にも、書いてみたいことがいくらでも見つかる。
長年、自分には心理のことしか書けないと思っていたのに。
どうやら、そうでもなかったらしい。
考えてみれば、頭の中で遊ぶことは、昔から好きだった。
それを文章にする方法を、最近になって少しずつ覚え始めたのかもしれない。
心理学を知って、見えるようになったものがある。
文章を書くことで、自分の考えを確かめられたこともある。
その一方で、書き続けているうちに、以前は気づかなかったものにも目が向くようになった。
何かを卒業したわけではない。
これからも心理エッセイを書くことはあるだろうし、眠っている原稿を、今の自分の視点で書き直すこともあるかもしれない。
自分の内側を見つめたい日もあれば、ただ面白い物語を書きたい日もある。
きっと、これからもいろんな気分の日があるのだろう。
人生の中で経験が積み重なっていくように、書くことでも、いろんなものが積み重なっていく。
そうしているうちに、少しずつ立っている場所が変わり、見える景色も変わっていく。
以前の自分が考えていたことを、今の自分が違う角度から眺めることもある。
それは、昔の考えが間違っていたということではない。
ただ、そこからまた、いろんなものが積み重なったのだと思う。
最初は、自分には一つしか引き出しがないと思っていた。
けれど、書いているうちに、思いがけない引き出しがいくつも見つかった。
これから何を書くのか、今の私にもまだわからない。
また自分の心について考えたくなるかもしれないし、犬たちの勝手な振る舞いに、新しい物語を見つけるかもしれない。
そのときの、心のままに。
まだ開けたことのない引き出しも、きっとある。
中に何が入っているのか。
今は、それを知らないことが、少し楽しみでもある。