
時雨(しぐれ)のなか出勤するもキャンセルあり早目に帰宅し鍋焼きうどんを(医師脳)
初冬の冷たい雨が、車のフロントガラスを不規則に叩いていた。
通り雨というには少し湿り気を帯びた時雨(しぐれ)の朝。ハンドルを握りながらワイパーの規則的な音を聞いていると、季節が一段階進んだことを肌で感じる。薄手の上着では心もとなく、首元をすり抜ける風に思わず肩をすくめた。
勤務先のクリニックに到着し、いつものように白衣に袖を通す。電子カルテの画面を開き、本日の予約状況に目を走らせた。
「先生、おはようございます。実はですね……」
看護師が申し訳なさそうな顔で声をかけてきた。時雨と急速な冷え込みのせいか、あるいは風邪症状で控えた方が多かったのか、今日の午前中に予定されていた検診の予約キャンセルが相次いだのだという。
「あいにくの天気ですしね。了解しました。無理に来て体調を崩されても大変ですから」
医師としての判断脳—通称「医師脳」が、瞬時に今日の診療ペースを再計算する。残りの数名の受診者の方々の診察を丁寧に行い、電子カルテの記録を滞りなく済ませると、思いのほか早い時間帯にすべての業務が完了してしまった。
「お気をつけてお帰りください。急に冷えてきましたからね」
「ありがとう。みなさんも暖かくしてくださいね」
思いがけず手に入った早めの終業。クリニックを出ると、雨はすっかりあがり、雲の切れ間からうっすらと柔らかい光が差し込んでいた。濡れた路面がキラキラと光を反射している。
「さて……」
まっすぐ自宅へ向かう道すがら、頭の中の「医師脳」はすでに診察モードから、家庭の食卓モードへと切り替わっていた。冷えた身体が求めているものは、ただひとつ。
ガラガラと玄関の引き戸を開けると、家の中はしんと静まり返っていた。妻も急な帰宅には驚くだろう。
「ただいま。思いのほか早くなったよ」
奥から「あら、お帰りなさい!早かったのね」と妻が驚いた顔で出てくる。外の寒さと、キャンセル続きだった午前の様子を簡単に話すと、妻はふふっと微笑んだ。
「それなら、ちょうど良かったわ。寒くなってきたから、今日はお昼に熱々の鍋焼きうどんにしようと思って買い置きがあったのよ」
「それはありがたい。願ったり叶ったりだ」
上着を脱ぎ、手洗いとうがいを念入りに済ませてリビングへ向かう。台所からはほどなくして、出汁(だし)の甘く香ばしい匂いが漂ってきた。グツグツと土鍋が鳴る音が聞こえてくる。
食卓に運ばれてきた土鍋の蓋を開けると、白い湯気が一気に立ち上った。
お出汁をしっかり吸ったうどんの上に、かまぼこ、椎茸、長ネギ、そして中央には綺麗な半熟の卵が載っている。
「いただきます」
まずはつゆをひとくち。鰹と昆布の旨味が、冷え切っていた胃の腑からじんわりと全身へ染み渡っていく。ハフハフと息を吹きかけながら熱々のうどんを啜ると、身体の芯から温もりが広がっていった。
「急な休みも、たまには悪くないでしょう?」と妻。
「そうだね。時雨のおかげで、最高の昼食にありつけたよ」
窓の外を見ると、再びパラパラと静かな時雨がガラスを叩き始めていた。
温かい部屋で、熱々の土鍋を挟んで向かい合う時間。
外の寒さも、予定外のスケジュールの変更も、すべてはこの一杯の鍋焼きうどんを美味しく味わうための、ささやかな前奏曲だったのかもしれない。
GEMINI