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人間は情報ゲームの駒となり、何者でもなくなる。

    サッカーワールドカップのスタジアムの観客席で、美女が自分の写真を撮影してInstagramにアップする。
    我々はそれを見る。
    彼女は何者か。
    彼女は単なる情報に過ぎない。
    別に彼女でなくてもいい。誰でもいい。
    その者は交換可能な記号だ。
    ご丁寧に彼女の「スペック」が紹介される。
    どの大学を出たとか、そんなようなことだ。
    全てが記号。
    我々は彼女のことを「知る」ことができるか?
    我々が知るのは、彼女ではなく、彼女が大量のイメージのプールから引き寄せたイメージだ。
    (イメージのプールについては、後で「鏡の部屋」の話で説明する。)
    そして、そのイメージは、もはや彼女とは何の関係もない。
    オリジナル(彼女自身)から切り離されたイメージを我々は見る。

    我々は鏡の部屋の中に閉じ込められている。
    イメージが鏡に反射して、無限の反射運動を繰り返している。
    人も物も出来事も、イメージとしてその部屋の中で反射運動を続ける。
    鏡の部屋の中にあるものは、全てが何かの鏡像であるから、何がオリジナルで、何がコピーなのかは断言できない。
    全てがコピーのコピーだ。

    どこかに確固たる現実があるわけではない。
    イメージは自己増殖して、イメージとイメージが合わさって新たなイメージが生まれて、我々は砂嵐の中にいるように、視界を遮られている。
    しかも、我々は視界を遮られていることを認識できない。
    目の前のイメージの砂嵐を、現実だと認識するからだ。
    このようにして我々は、現実よりも現実的なリアリティの世界に閉じ込められている。

    やがて、世界は一つのコンピュータシステムのようなものに近づく。
    そこで、人間は何者でもなくなる。
    人間は巨大なシステムの円環構造の中に閉じ込められる。
    人間はシステムの駒となる。
    自由意思も、作られたものとなる。
    システムへの反抗も、「システムへの反抗」という情報として、情報システムの中に組み込まれる。

    人類は、大きな情報機械生命体のようなものの細胞のようになるのかもしれない。
    そこに自我はあるのか。

    猿が進化してヒトとなったらしい。
    猿には「我思う、ゆえに我あり。」という内観はなかったと思う。
    猿には時間という概念がなかったはずだ。
    「朝三暮四」という言葉がそれを表している。

    「矛盾」という言葉がある。
    皆さんはこのエピソードは知っているはずだ。
    「これは最強の矛やでー、そんで、こっちは最強の盾やでー。」と商人が言う。
    バカじゃないの?アハハ。
    というお話だと多くの人は思っているはずだ。
    だが、この話の要は「時間」だ。
    もしかすると、この商人には時間という概念がなかったのかもしれない、というものだ。昔の話だから。

    この話をすると長くなるので、大きな情報機械生命体の話に戻る。
    システムの駒となった人類に自我はあるのか?

    そもそも自我、内観、意識とは?
    「我思う、ゆえに我あり。」と思うということはどういうことか。

    人類の祖先は、どの段階で意識を手に入れた?

    一説によると「文字」が、人類に時間の概念を与えて、意識を生み出したらしい。
    人は物語を発語で伝えていた。
    話した言葉は、音となり、相手の耳に届く。
    空気の振動に過ぎない。
    それが原初の言葉だ。
    そして、空気の振動はすぐに消える。
    人間が世界を理解するためには言葉が必要であった。
    (世界を言葉で理解していることについては、雑草の例え話で後述する。)

    だが、言葉を文字にしたらどうなるだろうか。
    空気の振動が、形になる。手で触れるモノになる。

    過去と現在と未来の言葉が、無時間的に一望できる。
    時間が可視化される。
    物語の始めと終わりの言葉を同時に見ることができる。
    人は時間を視覚的に捉えることが可能になった。

    さらに、思考が外部化されたため、人間を動物として動かしていた初期プログラムが壊れた。
    右脳に囁く「神々の声」を左脳が聴いて動く、という二分心の時代が終わっていった。
    これを「神々の沈黙」という。
    そして人類は意識を持つようになった。
    文字、時間、意識の導入である。

    ちなみにストーンヘンジやピラミッドやナスカの地上絵のような、意味不明な創造物は、人間が、人間と動物の中間的な存在だった時期に作られたと言われる。
    無意識の幻聴(これを神々の声という)に命じられるままに、当時の人類はそれらを作っていたらしい。

    ホメロスの『イーリアス』などを読むと、人の精神や心の働きや意識の表現がないらしい。
    このあたりのことは、ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』という本に詳しく書いてあるので興味がある人は読んでみてほしい。私はずいぶん前に読んだので記憶違いがあるかもしれない。それは申し訳ない。

    皆さんの目の前に雑草が生えた土地があるとする。
    皆さんは「目の前に雑草がある。」と世界を理解する。
    だが、そこに植物に詳しい人が現れて「あれは、セイタカアワダチソウです。」と説明したとする。
    その人が次々と雑草の名前を教えてくれたとする。
    そのとき、皆さんの目の前には「雑草が生えた土地」は無い。
    言葉が世界を分節して、新しい世界を皆さんに与えたのだ。
    これは「解像度が上がる」とかいう話ではない。

    この話をすると長くなるので、大きな情報機械生命体の話に戻る。
    システムの駒となった人類に自我はあるのか?

    私の予想は2種類ある。
    ①人間の意識が今までのものとは違うものになる。我々はその変化に気づけない。
    ②人間は意識を喪失して、動物に戻る(哲学的ゾンビのようなもの)。

    サッカーワールドカップのスタジアムの観客席で撮影された美女の写真を、Instagramにアップされた画像情報として見たとき、私は人類の終焉を感じる。

    そういう話。

    ここまで読んでくれてありがとうございます。

    ほんとに。

    何が言いたいかって言うと。

    それは。

    それはね。

    かっこいいー!俺って哲学的ー!ふぅーっ!
    ひゃっはー!俺ってマジでインテリ!

     
     
    町役場の職員。退職予定。ひどい組織だった。無法地帯。サービス残業当たり前の世界。37歳で手取り27万円。男。神奈川県在住。英語勉強中。このアカウントは人生の実況中継。

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