メインコンテンツへスキップ
見出し画像

やらない善より、やる偽善

    SNSを見ていると、たまにこんな投稿を見かける。

    「被災地への支援として、100万円を寄付しました!」

    素晴らしい話である。

    見ず知らずの人のために、自分のお金を使う。

    なかなかできることではない。

    ところが、こういう投稿には必ずと言っていいほど、こんなコメントがつく。

    「知名度アップに利用するな」

    「偽善でしょ」

    「どうせ話のタネにしたいだけ」

    ……。

    いや、ちょっと待ってくれ。

    まず、お前は寄付したのか?


    偽善だとして、何が問題なのか?

    確かに、寄付をSNSに投稿することで知名度が上がるかもしれない。

    好感度も上がるかもしれない。

    「この人、いい人だな」と思われるかもしれない。

    もしかしたら、仕事につながることだってあるだろう。

    つまり、寄付をすることで本人にもメリットがある可能性はある。

    だが、ここで考えてほしい。

    寄付をした人の好感度が上がったら、被災地は困るのだろうか?

    寄付金が届く。

    支援が必要な人の助けになる。

    その結果、寄付した人の知名度も上がる。

    ……別によくない?

    もちろん、寄付を利用した詐欺や、支援しているように見せかける行為は別の話だ。

    でも、実際に100万円を寄付している人に対して、「知名度アップに利用するな」と言うのは、さすがに厳しすぎないだろうか。

    知名度が上がることと、誰かが助かること。

    なぜ両立してはいけないのか。

    もしかして、寄付した人は知名度が上がるたびに、100万円を1万円ずつ返金しなければならないのだろうか。

    そんなシステムがあったら、寄付する人がいなくなりそうである。


    100万円って、普通にすごくない?

    ここで、寄付した金額について考えてみたい。

    仮に、その人の年収が1億円だったとしよう。

    100万円は年収の1%である。

    「年収1億もあるなら、100万円なんて大したことないだろ」

    そう思う人もいるかもしれない。

    確かに、年収300万円の人にとっての100万円と、年収1億円の人にとっての100万円では、生活への影響が違うだろう。

    だからといって、100万円が100円になるわけではない。

    そして、何よりすごいのは、自分のために使えるお金を、見ず知らずの人のために差し出したことである。

    俺なんて、友達に奢るときですら慎重になる。

    「ここは俺が出すよ!」

    と言いながら、頭の中では電卓が高速で動いている。

    ラーメン1,000円。

    餃子450円。

    合計1,450円。

    ……今日の昼飯、ちょっと高くない?

    もちろん、友達に奢ることと被災地への寄付は同じではない。

    だが、俺の金銭感覚からすると、100万円なんて異次元である。

    子供の頃なら、100万円という金額を聞いただけで気絶していたと思う。

    いや、今もか(笑)。

    100万円を寄付するどころか、100万円を手にした瞬間に、まず何を買うか考えてしまう自信がある。

    そんな俺からすれば、100万円を誰かのために寄付できる人は、普通にすごい。

    仮に多少の下心があったとしても、俺には到底できない。


    偽善かどうかを判定する謎の審査員

    そもそも、他人の善意に対して「それは本当の善意なのか?」と判定するのは、なかなか難しい。

    人間の心なんて、そんなに単純ではない。

    誰かを助けたい。

    いい人だと思われたい。

    感謝されたい。

    自分が気持ちよくなりたい。

    いろいろな感情が混ざっていることだってあるだろう。

    それでも、実際に誰かを助ける行動をしたのなら、その行動によって生まれた価値まで消えるわけではない。

    ところがSNSでは、なぜか善意の純度を審査する人たちが現れる。

    「これは承認欲求が何%だ」

    「売名行為が何%だ」

    「本当の善意は何%だ」

    まるで心の成分分析でもしているかのようである。

    そのうち、寄付をする際には第三者機関による善意検査が必要になるかもしれない。

    「あなたの寄付には、承認欲求が23%含まれています。今回は偽善と判定されました」

    ……何の検査だよ。

    しかも、その検査をしている人が一円も寄付していなかったら、もう笑うしかない。

    他人の善意には厳しいのに、自分の行動には甘い。

    人間とは、なかなか面白い生き物である。


    やらない善より、やる偽善

    もちろん、偽善でも何でもやればいい、と無条件に言いたいわけではない。

    支援を利用して自分だけが儲けるような行為や、被災者を傷つけるような見せ方には問題がある。

    だが、誰かを助ける行動をした人に対して、心の中に少しでも下心があるという理由だけで否定する必要はないと思う。

    だって、考えてみてほしい。

    偽善だと批判する人が何もしなかったとしても、被災地に支援は届かない。

    一方で、売名だろうが、好感度アップだろうが、実際に100万円を寄付した人がいれば、そのお金は支援に使える。

    もちろん、支援の方法やお金の使い道は確認する必要がある。

    でも、動機が100%純粋でなければ価値がない、という考え方は少し窮屈ではないだろうか。

    人間なんて、そんなに立派なものではない。

    俺だって、誰かに親切にしたあとで「今の俺、ちょっといい人だったな」と思うことくらいある。

    なんなら、誰にも見られていないところで親切にしたときですら、自分の中で好感度が上がっている。

    自分で自分を褒めているのである。

    観客ゼロの自己評価システム。

    しかも、評価基準は自分。

    不正の温床である。

    それでも、誰かの役に立てたのなら、別にいいじゃないか。

    善意に多少の下心が混ざっていたとしても、助かった人まで不幸になるわけではないのだから。


    なお、俺は100万円を寄付できない

    ここまで偉そうに語ってきたが、最後にひとつだけ問題がある。

    俺は、100万円を寄付できない。

    いや、100万円どころか、友達に1,000円奢るだけでも少し考える。

    「今日は俺が出すよ!」

    と言える人間にはなりたい。

    しかし、その言葉を発した瞬間、俺の財布の中で緊急会議が始まる。

    議題は「本当に出す必要があるのか」。

    議長は俺。

    反対派も俺。

    賛成派も俺。

    そして最終的に、割り勘という平和的解決に至る。

    そんな俺が、見ず知らずの人のために100万円を寄付する。

    ……想像しただけで気絶しそうである。

    だからこそ、実際に寄付した人に対しては、まず素直にすごいと思う。

    その人に売名の気持ちがあったのかもしれない。

    好感度を上げたかったのかもしれない。

    本当のところは本人にしか分からない。

    でも、俺には分かることがひとつある。

    少なくとも俺よりは、誰かのために行動している。

    だから俺は、偽善かどうかを審査する前に、まず自分の行動を振り返りたい。

    ……まあ、振り返ったところで、寄付金が増えるわけではないのだが。

    とりあえず、次に友達と飯を食べるときは、気前よく奢ってみようと思う。

    予算は1,000円。

    なお、ラーメンと餃子を頼まれた場合は、再審議とする。

     
     
    死ぬこと以外無傷の無能社会人(25)の平凡日記 「ダメな自分を愛せ!!!」

    あなたへのおすすめ