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Photo bybreadandcoffee

シロクマ文芸部/スルーする


    待つ時間というのは、常に不安をもたらし、ささやかな被害妄想を抱かせる。

    駅前の喧騒から逃れるようにして入ったその喫茶店は、琥珀色の照明に満ちた、いかにも「昔ながら」といった風情の店だった。男は空いていた窓際の席に腰を下ろし、使い込まれた合皮のメニューを開いた。映画を観た帰り、初めて降りた駅の、初めて入る店で、ランチ時の昼の一時半は満席だった。通りかかったウェイトレスを呼び止め、ブレンドコーヒーとナポリタン、そしてデザートのバスクチーズケーキを注文した。ウェイトレスは、無表情にメモを取ると「少々お待ちください」と厨房へと消えていった。

    最初の十分は、スマホのニュースサイトを眺めて過ごした。次の十分は、店内の装飾を観察して過ごした。壁には色褪せた絵画が飾られ、棚には埃を被った文庫本が並んでいる。混んでいるから仕方ない。そう思って待っていたが、二十分が経過しても、テーブルの上には最初に出された水以外、何ひとつ運ばれてこなかった。
     
    男は水を一口飲んだ。氷はすでに溶け掛けている。通りかかった先ほどのウェイトレスに、男は努めて穏やかな声で声をかけた。

    「すみません、さっき注文したんですけど…」
     
    ウェイトレスは歩みを止めず、視線さえ合わせようとしなかった。

    「少々お待ちください」
     
    事務的な口調でそう言い捨てると、彼女は奥のカウンターへと姿を消した。そこからさらに十分が経過した。合計で三十分。いくらナポリタンを茹でるのに時間がかかるとはいえ、コーヒー一杯すら出てこないのはおかしい。
     
    胸の中に不安の種が芽生え始めた男は、周りを見回した。もしかしてこの店には、なんらかのドレスコードがあるのかもしれない。自分の着ているヨレたシャツとチノパンは、この店の格式にそぐわないのだろうか。あるいは、一見さんお断りの完全会員制で、よそ者がひんしゅくを買っているのかもしれない。はたまた予約制の店で、飛び込みの客は後回しにされる、美容院のような暗黙のルールがあるのだろうか。
     
    被害妄想は膨らむばかりだった。確認しようにも、たまたま見つけて入った店のため、店名すら覚えていない。看板を確認したいが、この角度からは字が読めず、ネットで検索することもままならなかった。

    もう帰ろう。そう決意し、伝票のないテーブルから立ち上がりかけたその時だった。厨房の奥から、先ほどのウェイトレスがトレーを持って現れた。その上には、湯気を立てるナポリタンと、深い香りを漂わせるコーヒーが乗っている。

    ああ、やっと来たか。
     
    男は安堵し、浮かせた腰を再び椅子に降ろした。空腹が最高のスパイスになりそうだ、と自分に言い聞かせ、ナプキンを手に取ろうとした。しかし、ウェイトレスは男の席の横を通り過ぎ、すぐ隣のテーブルへと向かった。

    「お待たせいたしました。ナポリタンとコーヒーでございます」
     
    隣の席に座る、後から来たはずの若い男の前に、料理が並べられていく。男は呆然とそれを見つめた。たまらず、もう一度ウェイトレスに声をかける。

    「あの、僕の注文はどうなっていますか? さっきからずっと待っているんですが」
     
    ウェイトレスは、隣の客に会釈をしながら、やはり同じトーンで答えた。

    「少々お待ちください」
     
    彼女はそのまま、男の視界から消えた。周りの客は次々と入れ替わっていった。自分より後に来た客たちが、オムライスやサンドイッチを平らげ、満足げに会計を済ませて店を出ていく。男のテーブルだけが、時間が止まったかのように空白のまま放置されていた。
     
    やがて陽が傾き、夜の帳が降り、店内に流れていたクラシック音楽が止まった。ウェイトレスが窓際のカーテンを一つずつ閉め始める。店内に、もう客は誰もいなかった。別の従業員が現れ、男の足元で無言のまま箒を動かし始めた。埃が舞い、男は小さく咳き込んだが、彼らは男の存在など最初からなかったかのように掃除を続けている。

    「お疲れ様でした」
    「お先に失礼します」
     
    厨房の奥から、私服に着替えた従業員たちが次々と出てきた。彼らは入り口のドアを開け、外へと消えていく。先ほどのウェイトレスも、大きなトートバッグを肩にかけ、男の横を素通りして店を出た。
     
    パチン、という乾いた音が響いた。
    店内の照明が一斉に消えた。わずかに開いたカーテンの隙間から差し込む街灯の光だけが、店内の輪郭をぼんやりと浮き上がらせている。

    静まり返った喫茶店の中で、男はひとり、椅子に座り続けていた。目の前には、氷も溶け去り、生温くなったコップ一杯の水がある。男はそれを手に取り、ゆっくりと口に含んだ。
     
    待つ時間というのは、常に不安をもたらす。しかし、身に覚えのない被害妄想を抱くのは間違っている。おれは何も悪いことはしていない。料理が来るのが遅いだけなのだ。
     
    男は暗闇の中で、注文したナポリタンとコーヒーとバスクチーズケーキを待つために、おかわり自由の給水器へと、コップを持って立ち上がった。


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    こちらの企画に参加させていただきました。
    人間は案外どんなものもスルーできるようにできています。
    待つ時間が長かった人ほど、ある機を境にスルー度が加速する気がします。
    小牧幸助さん 宜しくお願いいたします。
    最後までお読みくださりありがとうございました😊🐧


    #シロクマ文芸部
    #待つ時間



     
     

    渡鳥

     
     
    形式にこだわらずなんでも書きます。 短編・中編・長編それぞれで公募に挑戦中。 公募ガイド小説でもどうぞ 第17回 第26回 最優秀賞 ペンギン好き。創作し続ける人でありたい。

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