メインコンテンツへスキップ
見出し画像

『受け継がれし熱気』

    第三話:丙午の迷信と、東京五輪の狂騒


    「ねえ陸、これ見てよ。この相性診断アプリによると、私たち、35%だって」

    結衣はスマートフォンの画面を指先でなぞりながら、少し困ったように眉をひそめた。

    画面には、冷たいデジタルフォントで「将来的な破局率高し」という無機質な文字が踊っている。

    「最近SNSでも流行ってるの。データを分析して、喧嘩しやすいカップルの特徴を予測するアルゴリズムなんだって。なんか、ちょっと不安になっちゃうな」

    結衣はそう言って、画面の「なめらかな快適さ」の中に潜む、実体のない不安を見つめていた。

    陸は、自分の指先の爪の端をそっと見つめた。

    そこには、昨日祖父の書斎で触れた、あの石炭の黒い煤が、まだ微かに、頑固に残っている。

    何の引っかかりもないスマートな日常の中で、そのわずかな汚れだけが、確かな「現実」として陸の皮膚に吸い付いていた。

    「おいおい、そんな実体のない数字に、大切な時間を奪われてどうするんだい」

    二人のすぐ横で、90歳になった栄一が、最新の薄型タブレットに向き合いながら楽しそうに笑い声を上げた。

    栄一は今、1964年の東京五輪のファンファーレが鳴り響く聖火ランナーの古い白黒映像を、AIを使って鮮やかな色彩へと復元する作業に没頭していた。

    「じいちゃん、AIで動画の修復なんて本当に器用にこなすよね」

    陸が感心したように言うと、栄一は額の老眼鏡をクイと押し上げ、自慢げに胸を張った。

    「当たり前よ。冷たい機械に、ワシの記憶という『熱量』をくべているんだからな。

    それにしても、今の時代はアルゴリズムだの診断だの、便利な『ノイズ』が多い。ワシらの若い頃にも、もっと理不尽で冷酷な『ノイズ』があったよ」

    「それって、なに?」

    結衣が不思議そうに尋ねると、栄一はタブレットの画面をそっとスライドさせ、1966年の新聞の白黒切り抜き画像を映し出した。

    「丙午。その年に生まれた女性は気性が荒く、夫の寿命を縮めるという、社会を支配した古い古い迷信さ」

    「ええっ、そんなのただの迷信じゃない。科学的な根拠なんてゼロでしょ」

    結衣が驚いて声を上げると、栄一は静かに頷いた。

    「ああ、根拠なんてゼロさ。だがな、

    1966年には日本中の出生率が極端に下がるほど、

    その『目に見えない冷たい言葉』は、若者たちの未来を容赦なく引き裂いていたんだ。

    ワシが30歳になり、結婚を考えたあの年が、まさにその丙午の嵐の真っ只中だった」

    栄一の指先がタブレットをなぞると、画面の文字がゆっくりと、1966年の熱気と狂騒の記憶へと沈み込んでいった。

    1964年の東京五輪のファンファーレが街に余韻を残し、日本中が「近代化」という新しい風を浴びていた時代。

    しかし、その輝かしい未来のすぐ裏側には、古い家父長制の因習と、冷酷な噂話(ノイズ)が未だに深く根を張っていた。

    「ワシはな、お前たちの祖母さんになる女性と出会い、この人と一生を共にしたいと心から願っていた。だが、彼女は丙午の生まれだった」

    栄一が語る過去のタイムライン。

    周囲の親戚や近所の連中は、こぞって栄一の母・キヨのもとへ押しかけ、声を潜めて

    「あの娘はやめておけ」「家が滅びる」

    と冷たい言葉を浴びせかけた。

    「まあ、結婚する前には、お見合いを何十回も断られるほど不格好なワシだったがな!」

    栄一は照れ隠しに大声を上げて笑った。

    「本当だよ、陸。じいちゃん、最初のお見合いの時は緊張しすぎて、お茶をご自身のズボンに丸ごとこぼして、

    お相手から『不格好な人』って一瞬で断られたんだから。
    その後も十何回もフラれ続けたのよね」

    茶の間に入ってきた叔母がクスリと笑いながら暴露すると、栄一は

    「おいおい、余計なことを言うな!」と耳を真っ赤にした。

    しかし、そんな人間味あふれる不器用な栄一の背中を、静かに、そして力強く押したのは、あの厳格な母・キヨだった。

    周囲の激しい非難や冷たい視線に、栄一自身が

    「やはり諦めるべきか」と弱気になり、長屋のストーブの前で頭を抱えていた夜。

    48歳になった母・キヨは、少し背中が小さくなっていたが、その瞳には昔と変わらない、凛とした「規律」の光が宿っていた。

    キヨは何も言わず、奥のタンスから、大切に桐の箱に保管されていた一枚の古い着物を取り出した。

    それは、戦後の飢えの中でも、極寒の青森港の地吹雪の中でも、

    彼女が決して手放さなかった、目の詰まった美しいシルクの着物だった。

    キヨはその着物を栄一の前にそっと置き、彼の泥だらけの無骨な手を、温かい掌で包み込んだ。

    「栄一、他人の冷たい噂(ノイズ)が、私たちの体を一度でも温めてくれたかい?

    青森の地吹雪の中でお父うが送ってくれた石炭の熱だけが、私たちの命を繋いだんだよ。

    これからはお前の時代だ。他人の目に見えない冷たい言葉ではなく、お前が愛した人の『手の温度』だけを信じなさい。

    この着物を売って、あの娘に新しい帯を買いなさい」

    キヨの言葉は、かつて10歳の栄一を厳しく律した「規律」の奥にあった、どこまでも深く、優しい本物の愛そのものだった。

    「ワシはな、陸、結衣さん。

    あの時、母ちゃんから受け取った絹の温もりと、その手のぬくもりを信じて、周囲の雑音をすべてはねのけた。

    そして、彼女の手を握りしめて、自分の足で新しい家族を作る一歩を踏み出したんだ。

    ワシは、あの時ほど、自分の手が温かいと思ったことはなかったよ」

    栄一は、懐かしそうに目を細め、白髪の頭を撫でた。

    書斎に、静かな沈黙が降りてきた。 陸は、スマートフォンの画面の上で、相性診断の数字を見つめて不安そうにしていた結衣を見た。

    傷つかないように、すれ違わないように、完璧に管理されたデジタルな世界。

    でも、そのなめらかさの中には、相手と深く向き合うための「体温」が、どこか置き去りにされていたのかもしれない。

    陸はそっと手を伸ばし、結衣のスマートフォンの画面をそっと伏せた。

    そして、戸惑う結衣の手を、自分の手で静かに、しっかりと包み込んだ。

    「アプリの数字なんて、どうでもいいよ。僕たちの手、ちゃんと温かいじゃん」

    結衣は一瞬驚いたように目を見張ったが、やがて、陸の指先から伝わる確かな体温に、嬉しそうに微笑んだ。

    スマホの画面の上をなぞるだけの日常の裏側で、二人の手のひらの間に、

    小さな、しかし消えることのない本物のぬくもりが、静かに爆ぜるように灯り始めていた。

    最後まで読んでいただき、ありがとうございます💗

     
     
    創作物語を書いています。心の隙間を埋めるために、書いています。よろしくお願いします。

    あなたへのおすすめ