
えびす
海で人を拾った朝から、僕の手のひらは、乾かなくなった。
指の腹が、長湯をしたあとのように白くふやけて、細かい皺が寄っている。タオルで拭いても、ストーブにかざしても、皺は伸びない。押すと、押したところが白く凹んだまま、しばらく戻らない。触っても、自分の手を触っている気がしない。濡れた紙を、上から貼りつけてあるみたいだった。
拾ったのは、網の浮きの向こうに浮いていた、仏さんだった。
都会の勤めを辞めて、この浜に来た。机の前で、自分の手が何もつかんでいない気がして、眠れなくなったのがきっかけだった。母は、ひとりになるのを寂しがったが、止めはしなかった。漁師の後継ぎを募る町の制度に応募して、源さんという年寄りの舟に乗せてもらっている。夜明け前に港を出て、前の晩に沈めておいた刺し網を、舷の機械で巻き上げる。網の目に刺さった魚を、指で外していく。冬の手前の海は、手袋の上からでも指を噛んだ。
乗って間もないころ、源さんに言われた。海で仏さんに会ったら、えびすさんだと思え。見なかったふりは、するな。必ず拾え。拾うときは、拾ってやるから大漁させろ、と声をかけろ。
源さんは、そう言うあいだ、僕の顔を見ずに、破れた網の目を指で繕っていた。冗談だと思った。港の飲み屋でその話をすると、隣の舟の若い衆は笑わずに、うちの爺さんも言ってた、と言った。昔は、拾ってきた仏さんを、岬の祠に祀ったんだと。
あの朝、網を半分ほど揚げたところで、源さんが機械を止めた。
浮きの向こうの波間に、黄色いものが、持ち上がっては沈んでいた。浜の者がみんな着ている、あの黄色い合羽だった。うつ伏せで、丸めた背中だけが水から出ていた。
舟が近づくにつれて、潮の匂いの下から、甘く腐ったような匂いが立ちのぼってきた。合羽の背中は、中から何かを詰めこんだように、ぱんぱんに膨らんでいた。舷を叩く波の音と、頭の上で鳴く鴎の声と、止めた機械から垂れる油の匂いと、その甘い匂いとが、いっぺんに押し寄せてきて、僕は合羽の襟もとから水の中へ垂れている、海藻のように黒くほどけた髪の先から、どうしても目を離せなかった。
源さんは舟を回して、舷を寄せた。それから、オレンジ色のゴム手袋を、僕の胸に放った。素手で触るな。
手袋をはめ、身を乗り出して、水の中の手首をつかんだ。冷たかった。持ち上げようとした拍子に、つかんだところの皮が、ずるりと滑って、手袋を脱ぐように指の先まで抜けてきて、白く薄い皮が、僕のゴム手袋の中に、濡れた薄紙のようにくしゃっと残った。
僕は舷から、胃の中のものを吐いた。吐くものがなくなっても、喉が勝手に縮んで、酸っぱい水が上がってきた。
源さんと引っぱって、甲板に上げた。源さんはすぐに、青いシートを広げて、上からかぶせた。透けてくる朝の光が、青く、揺れていた。
拾ってやるから、大漁させろ。
源さんがそう言うのを、僕は、甲板に膝をついたまま聞いていた。
港に戻ると、岸壁に浜の婆さんたちが待っていて、シートごと、どこかへ運んでいった。僕は、あの手袋を海に捨てた。
その日から、源さんの網は、重くなった。
揚げても揚げても魚が刺さっていて、外す指が追いつかない。ほかの舟の網は、いつもどおりだった。港の者は源さんの舟を見て、えびすさんのおかげだ、と言った。浜の婆さんたちは、僕と道で会うと、立ち止まって手を合わせた。冗談めかした拝み方だったが、目は僕の顔ではなく、僕の手のほうを見ていた。家の戸口には、朝になると、誰かが魚や煮しめや酒や、干した若布を置いていった。
港の飲み屋では、隣の舟の若い衆が、僕の湯呑みに、いちばん先に酒を注いだ。あんたが来てから、浜が明るくなった、と彼は言った。僕の手のほうを見ながら、言った。
体が、冷えるようになった。
ストーブの前にいても、腹の底が温まらない。布団に入ると歯の根が合わず、顎ががちがちと鳴った。診療所で熱を測ると、看護師さんは体温計の数字を見て首をかしげ、反対の脇で測り直した。同じだった。寒いところでお仕事なさってますもんね、と看護師さんは言った。
手のひらは、峠の向こうの町の皮膚科で診てもらった。浸軟ですね、と医者は言った。皮膚が長く水に触れていると、こうなるんです。水仕事の方には多いですよ。なるべく乾かして、お仕事のときは手袋を。
言われたとおりにした。舟の上では新しいゴム手袋を外さず、家では、ドライヤーの温風を手のひらに当てたまま眠りこんだ。ワセリンを塗って、綿の手袋をはめて寝た。朝、綿の手袋は、絞れるほど濡れていた。指先を舐めてみると、塩辛かった。
漁を、休んだ日もある。
その日、源さんはひとりで沖へ出た。網には、何も刺さっていなかったそうだ。ほかの舟も同じだった。夕方、婆さんたちが連れだって家に来た。責める者はいなかった。煮しめの鍋を上がり框に置いて、体、冷やさんようにね、と言い、僕の手を、かわるがわる両手で包んだ。冷たいねえ、と、うれしそうに言った。
あくる朝、源さんは、僕の顔を見ずに言った。網は引かんでいい。舟に、乗っててくれりゃいい。
その日の帰り、港の水道で、ゴム手袋を外した。
手袋の中に、もうひと組、手袋が入っていた。
白くて、薄くて、指の先まで揃っていた。手のひらの皺も、指紋の渦も、そのまま写っていた。
僕の手のひらは、赤く剥けて、濡れて光っていた。剥けたところから薄い赤い水がにじんで、手首を伝い、袖口に染みた。痛くはなかった。水道の水を当てると、皮の下の肉に、冷たさだけが、遠くから届いた。
あの仏さんが、まだ僕の手首をつかんで離さないのだ、と思った。
どこの誰なのか分かれば、家に帰してやれる。そう考えて、町の交番へ行った。若い巡査は、帳面と画面を見比べてから、首を振った。その朝、この浜から、ご遺体の届けは出ていませんね。身元の分からない方なら、官報に載るはずですが。
図書館のパソコンで、身元の分からないまま亡くなった人を知らせる官報の欄を、遡れるだけ遡った。見つかった場所、背格好、着ていたもの、ポケットに入っていた小銭の額まで。この海沿いの町の名前は、どこにもなかった。
浜の者で始末したのだ、と僕は思った。えびすさんとして、岬の祠に祀ったのだろう。浜の者は、みんな優しい。優しいまま、黙っている。
岬の祠へは、松林の中の細い石段を上っていく。上りきると、潮風に削られた小さな石の祠があって、扉は閉まっていた。新しく土を掘り返した跡は、どこにもなかった。祠の前には、酒の小瓶と、煮しめの鉢が供えてあった。毎朝、僕の家の戸口に置かれていくのと、同じ柄の鉢だった。僕は、祠に手を合わせかけて、やめた。何に向かって手を合わせればいいのか、分からなかった。
母に電話をすると、しばらく黙ってから、あんた、声がくぐもってるね、と言われた。水の中から、しゃべってるみたい。風邪をひいただけだと言うと、母は、帰っておいで、と言った。体を壊してまで、することないよ。
朝いちばんのバスに乗った。源さんにも、婆さんたちにも、何も言わなかった。峠を越えれば、駅のある町に出る。
バスが坂を上りはじめると、息が浅くなった。吸っても吸っても胸の底まで空気が下りていかず、喉の奥でごぼごぼと水の鳴るような音がして、窓の外の海が背中のほうへ遠ざかるほど、肋骨が内側から締めつけられ、指の先がしびれて冷たくなり、窓ガラスに映った自分の唇が、紫色に変わっていくのが見えた。
峠の手前で、運転手がバスを止めた。
目を覚ますと、浜の、僕の家の布団の上だった。枕もとに婆さんたちが並んで座っていた。布団が湿るからと、敷布団の下に、青いシートが敷いてあった。浜を出ちゃいけないよ、と誰かが言った。体に障るからね。誰も、僕の顔を見なかった。
その晩、風呂に湯を張った。
手のひらを沈めると、剥けたところが、すうっと静かになった。肩まで浸かると、ずっと締めつけられていた胸が、ほどけていった。僕は、頭まで沈んだ。
湯の底で目を開けると、天井の明かりが、ゆらゆらと揺れていた。いつまで沈んでいても、苦しくならなかった。耳の奥で、遠い波の音がしていた。胸は、膨らみも縮みもしなかった。
顔を上げると、鼻と口から、湯ではない水が、塩辛く流れ出た。
陸の空気より、こっちのほうが、楽だった。
あくる朝、舟の上で、源さんに聞いた。あの仏さんは、どこへやったんですか。
源さんは、網を繕う手を止めなかった。
仏さんなんか、上げてねえよ。
あの朝、上げたのは、お前だ。
網を揚げているとき、僕が舷から落ちたのだという。機械の音で、源さんはしばらく気づかなかった。振り返ると、浮きの向こうで、黄色い合羽が、うつ伏せのまま、波に持ち上がっては沈んでいた。
手袋なんか、はめてる暇はなかった。素手で、お前の手首をつかんだ。そしたら、皮が、手袋脱ぐみたいに、ずるっと抜けた。
源さんは、自分の手のひらに目を落とした。
落ちてから、そんなに経っちゃいなかった。それなのに、長いこと浮いてた者の手だった。
顔にシートかけて、浜まで戻った。婆さんたちが湯で拭いてやったが、息はしなかった。だから、言ったんだ。拾ってやったんだから、大漁させろ、って。
そしたら、お前、水を吐いた。
源さんは、そこでやっと、網を繕う手を止めた。けれど、顔は上げなかった。
それからだよ。網が、重くなったのは。
僕は、自分の手のひらを見た。白くふやけた指の腹に、あの朝、手袋ごしにつかんだ手首の冷たさが、まだ残っていた。つかんだほうの冷たさだと、ずっと思っていた。
舟が港を出るとき、岸壁に並んだ婆さんたちが、こちらに手を合わせる。
僕は、もうゴム手袋をはめない。はめても、はめなくても、手のひらは乾かない。
網は、今朝も重い。
拾ってもらったのだから、大漁させなければならない。