
第40章 牙を剥く者たち
鋭い衝撃音が、廃墟となったレジャーパークに響き渡った。
蓮の爪と朔の剣がぶつかり合う。
その余波だけで、周囲の砂埃が激しく舞い上がった。
「ははっ! すごい、兄さん!」
朔は楽しそうに笑いながら、剣を振るった。
蓮はその一撃を鋭い爪で受け流し、すぐさま反撃に転じる。
腕を振るうたびに風が唸り、目に見えない斬撃が地面を削った。
古びた遊具が切り裂かれ、金属片が飛び散る。
遥はその光景に、息を呑んでいた。
速い。
あまりにも速すぎる。
目で追うことさえ難しい二人の動きに、同じ吸血鬼でも始祖がどれほど特別な存在なのかを思い知らされた。
その時だった。
「……さて」
静かな声が、背後から聞こえた。
「私たちも始めましょうか」
東雲だった。
その言葉と同時に、周囲の建物の陰から人影が現れ始めた。
一人、二人。
いや、それだけではない。
閉鎖された売店の裏。
錆びついた観覧車の支柱の陰。
使われなくなった管理棟の入口。
次々と姿を現す男たちを見て、遥の表情が強張った。
「……こんなに?」
ざっと見ただけでも、二十人以上はいる。
その全員から、人間とは異なる気配が漂っていた。
「……吸血鬼か」
三葉が低く呟いた。
東雲は穏やかな表情のまま、部下たちへ視線を向けた。
「霧島遥様だけは、生かして捕らえなさい」
そして、まるで何でもないことのように続ける。
「それ以外は、好きにして構いません」
遥の背筋が冷たくなった。
東雲にとって、自分は朔へ差し出すための存在なのだ。
その言葉を合図に、吸血鬼たちは一斉に懐から小さな注射器を取り出した。
「……何を?」
二ツ谷が眉をひそめる。
男たちはためらうことなく、自分の腕へ針を突き立てた。
透明な筒の中にあった液体が、次々と体内へ押し込まれていく。
直後。
「……ぐ、うぅ……!」
低い唸り声が響いた。
一人の男が背中を丸め、両腕を震わせる。
その肩が、不自然に盛り上がった。
続いて別の男も、苦しげに喉を鳴らす。
服の下で筋肉が膨張し、首筋には太い血管が浮かび上がっていた。
しかし、彼らの目から理性が消えたわけではなかった。
互いに視線を交わし、武器を握り直している。
明らかに、自分の意思を保っていた。
「……なるほど」
一ノ瀬が静かに口を開いた。
「薬品によって、一時的に身体能力を引き上げているようですね」
眼鏡の奥の瞳が、鋭く細められる。
「効果がどれほど続くかは分かりませんが、通常の吸血鬼よりも力が強くなっていると考えた方がよいでしょう」
そして、遥たちを見た。
「皆さん、十分にお気をつけください」
「言われなくても分かってる!」
三葉が拳を握りしめた。
二ツ谷はすでに、東雲から目を離していなかった。
「三葉」
「ああ。分かってる」
二人は短く言葉を交わすと、同時に地面を蹴った。
狙いは、東雲。
「……おや」
東雲がわずかに目を細めた。
「お二人で、私の相手を?」
「前の借りを返させてもらう!」
三葉の拳が、東雲の顔面へ迫る。
しかし東雲は、その一撃を紙一重でかわした。
直後、横から二ツ谷の蹴りが飛ぶ。
東雲は腕を上げて受け止めたものの、その衝撃で数歩後退した。
「……なるほど」
東雲の口元が、わずかに上がる。
「以前より、動きが良くなりましたね」
「余裕ぶっていられるのも、今のうちよ」
二ツ谷が低く告げる。
三葉は再び拳を構えた。
「今日は逃がさねえぞ、東雲!」
次の瞬間、三人の姿が激しく交錯した。
「……霧島様」
背後から、一ノ瀬の声がした。
振り返ると、彼はすでに戦闘態勢に入っていた。
「戦えますね?」
遥は一瞬、息を呑んだ。
周囲には、薬品によって強化された吸血鬼たち。
今までの訓練とは、まるで違う。
失敗すれば、命を落とすかもしれない。
それでも。
遥は拳を握りしめた。
「……はい!」
一ノ瀬が小さく頷いた。
「では、私の背中をお任せします」
「はい!」
二人は背中合わせに立った。
周囲を取り囲む吸血鬼たちが、じりじりと距離を詰めてくる。
遥は呼吸を整えた。
何度も繰り返してきた訓練。
三葉に教わった足の運び。
二ツ谷に注意された、相手の肩や腰の動きを見ること。
一ノ瀬に言われた、焦って先に動かないこと。
その一つひとつを、思い出す。
「……来ます」
一ノ瀬が呟いた。
次の瞬間、男たちが一斉に襲いかかった。
「……っ!」
遥は正面から突進してきた男の腕をかわした。
体を横へずらし、相手の勢いを利用して足を払う。
男が大きく体勢を崩した。
そこへ、訓練で何度も練習した蹴りを叩き込む。
「ぐっ……!」
男が地面へ倒れた。
――……できた!
だが、喜んでいる暇はなかった。
すぐ横から、別の男が迫る。
遥は慌てて腕を上げ、振り下ろされた拳を受け流した。
衝撃が腕に響く。
重い。
訓練相手だった三葉とは、また違う力だった。
それでも、遥は踏みとどまった。
「……はっ!」
相手の脇腹へ蹴りを入れる。
男がよろめいた隙に距離を取り、もう一度構え直した。
その背後では、一ノ瀬が別の吸血鬼たちと向き合っていた。
「……さて」
一ノ瀬は静かに眼鏡へ手をかけた。
「少々、邪魔ですね」
そう言って、眼鏡を外す。
遥は思わず振り返った。
「……一ノ瀬さん?」
普段、眼鏡の奥に隠されている瞳。
その色が、ゆっくりと変わっていった。
深い赤。
まるで暗闇の中で燃える炎のような、鮮やかな紅色だった。
その瞳が、正面の吸血鬼を捉える。
「……止まりなさい」
静かな声だった。
しかし、その瞬間。
男達の動きが、ぴたりと止まった。
「……え?」
遥が目を見開く。
男は拳を振り上げた姿勢のまま、微動だにしない。
その隣にいた二人も、同じように動きを止めていた。
「……魅了?」
遥が呟く。
「ええ」
一ノ瀬は落ち着いた声で答えた。
「長時間は効きませんが、数秒あれば十分です」
次の瞬間。
一ノ瀬の足が、鋭く振り抜かれた。
鈍い衝撃音。
正面の男が吹き飛び、背後にいた二人を巻き込んで地面を転がった。
「……っ!」
遥は思わず息を呑んだ。
三人が、まとめて吹き飛んだのだ。
しかも一ノ瀬は、ほとんど息を乱していない。
「……一ノ瀬さん、すごい……」
「ありがとうございます」
まるで仕事を褒められた時と変わらない口調だった。
しかし、その直後。
一ノ瀬は横から迫ってきた男の拳を片手で受け止めた。
「……ですが、感心している場合ではありませんよ」
「……はいっ!」
一ノ瀬が男の腕をひねり上げる。
そのまま地面へ叩きつけると、さらに別の敵へ向き直った。
眼鏡を外した彼は、まるで別人だった。
動きに無駄がない。
判断が速い。
相手の攻撃を読むだけでなく、次に誰が動くのかまで把握しているようだった。
臺グループを支える優秀な補佐役。
それだけではなかった。
蓮の側近として、長い年月を共にしてきた吸血鬼。
その実力は、遥が想像していたものを遥かに超えていた。
「……くっ!」
遥は迫ってきた男の拳をかわし、低く身を沈めた。
相手の足元へ蹴りを入れる。
男が体勢を崩した瞬間、肩を押し込むようにして地面へ倒した。
三人目。
遥は荒く息を吐いた。
腕が痛い。
足も重くなってきた。
けれど、まだ動ける。
「……次!」
別の吸血鬼が迫る。
遥は一歩引いて攻撃をかわし、相手の懐へ踏み込んだ。
短く拳を打ち込む。
男がよろめいたところへ、膝を突き上げた。
「ぐあっ!」
男が倒れる。
四人目。
さらに、背後から伸びてきた腕を掴み、体を回転させる。
勢いを利用して相手を投げ飛ばすと、男は近くの柵へ激突した。
五人目。
遥は肩で息をしながら、拳を握り直した。
――……私、戦えてる。
自分でも信じられなかった。
以前なら、吸血鬼を目の前にしただけで動けなくなっていたはずだ。
けれど今は違う。
怖い。
もちろん、怖い。
それでも、体が動く。
何度も繰り返した訓練が、確かに自分の中に残っていた。
「……霧島様!」
一ノ瀬の声が響いた。
遥は反射的に身をかがめた。
頭上を、太い腕が通り過ぎる。
その直後、一ノ瀬の蹴りが男の胸へ叩き込まれた。
男が大きく吹き飛ぶ。
「……ありがとうございます!」
「いえ。ですが、無理はなさらないでください」
一ノ瀬は赤い瞳のまま、周囲を見渡した。
倒れた吸血鬼たち。
しかし、その向こうには、まだ何人もの敵が立っていた。
しかも、最初に倒した者たちの中には、すでに起き上がろうとしている者までいる。
「……っ」
遥の表情が強張った。
倒したはずなのに。
あれだけ強く蹴り飛ばしたのに。
吸血鬼たちの傷は、少しずつ塞がっていた。
薬品によって強化された肉体は、通常よりも回復が速いのかもしれない。
「……一ノ瀬さん」
「はい」
「……まだ、こんなに」
一ノ瀬は静かに頷いた。
「ええ。数が多すぎますね」
彼の声は冷静だった。
しかし、額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
いくら一ノ瀬が強くても、無限に戦えるわけではない。
魅了の力にも限界がある。
何より、遥を守りながら戦っているのだ。
周囲の吸血鬼たちが、再び距離を詰めてきた。
その目には、先ほどまで以上の殺気が宿っている。
「……霧島様」
一ノ瀬が低く告げた。
「私から離れないでください」
「……はい」
遥は頷いた。
背中合わせになった二人の周囲を、敵が取り囲む。
遠くでは、蓮と朔の戦いが続いていた。
激しい衝撃音。
風の斬撃が地面を削る音。
金属がぶつかり合う甲高い響き。
そして別の方向では、二ツ谷と三葉が東雲を相手に激しい攻防を繰り広げている。
誰も、こちらへ助けに来られる状況ではなかった。
遥は拳を握りしめた。
ここで倒れるわけにはいかない。
蓮の足を引っ張りたくない。
守られるだけの自分には、戻りたくない。
けれど。
敵は、まだ減らない。
むしろ、少しずつ包囲が狭まっている。
一ノ瀬が静かに息を吐いた。
「……霧島様」
「はい」
「次は、少々厳しくなりそうです」
遥は唇を結んだ。
そして、震えそうになる足に力を込めた。
「……それでも、戦います」
一ノ瀬はわずかに微笑んだ。
「……頼もしくなられましたね」
次の瞬間。
吸血鬼たちが、一斉に地面を蹴った。
遥もまた、前へ踏み出した。
終わりの見えない戦いが、さらに激しさを増していった。