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秀吉が築いた聚楽第の最新復元図と復元図の変遷

    京都市埋蔵文化財研究所が、2026年10月に発掘ニュース148をリリースしました。タイトルは「最新成果から見た聚楽第跡の姿」。いままで聚楽第の復元図は少しずつ形を変え精度が上がってきたイメージがありましたが、今回はガラリと姿を変えています。なぜガラリと変えたのか。復原図の変遷も含めて簡単に解説します。

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    リンクを張っておきます➡ リーフレット京都 447 最新成果から見た聚楽第跡の姿
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    聚楽第図屏風の部分

    そもそも聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)とは、関白となった豊臣秀吉が天正14年(1586)2月に築城を開始し、わずか1年半程度の期間で完成させた京都での居城です。天正19 年に甥で関白の豊臣秀次に譲りますが、文禄4年(1595)に起きたいわゆる秀次事件により、秀次の存在とその権威の痕跡を地上から完全に消し去るかのように、堀や石垣などが徹底的に破却されすべて跡形もなく削平されてしまいました。

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    これまでの聚楽第復元図①と②。
    カシミール3Dで作成した地形図と重ねています。

    1991年の発掘調査で東堀跡が発見されました。現在ハローワークがある場所で多種多様な金箔瓦なども発見されています。2012年には本丸南堀の石垣が発見され、地下に眠っていた痕跡が少しずつ姿を現してきたのです。その頃につくられたのが聚楽第復元図①です。さらに地表に人工的な振動を与えて土質の変化を読み取る「表面波調査」が行われ、「本丸」「南二之丸」「西之丸」「北之丸」を復元。その時、外堀の復元案も提示されました。それが聚楽第復元図②です。

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    2023年に見つかった西外堀推定地での堀状遺構

    2023年に聚楽第復元図②で想定した西外堀推定地を発掘すると堀状の遺構が出てきたのですが、聚楽第の外堀とは考えにくい幅の狭いものでした。この堀状遺構は外郭や武家屋敷を限る区画溝であると考えて、外堀が描かれていない広島市立中央図書館所蔵の『諸国古城之図「山城聚楽」』を参考に復元されたのが新たな聚楽第復元図です。つまり外堀はなかったとしたのです。

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    諸国古城之図「山城聚楽」と新たな聚楽第復元図

    いままで『諸国古城之図「山城聚楽」』と聚楽第の復元図があまりにも違うのでモヤモヤしていた方も多かったのではないでしょうか。今後の聚楽第研究の成果が楽しみです。
    「新たな聚楽第復元図」の大きめの画像を張っておきます。私がフィールドワークをした時のGPSルートと写真もつけていますので町歩きなどにご利用ください。

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    フィールドワーク用の地図
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    秀次の時代に増築されたと考えられる北之堀の高低差と
    正親小学校の角にある聚楽第本丸西濠跡の碑。
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    梅雨ノ井の跡と伝わる井戸跡と
    聚楽第南外濠跡の碑が立つ広大な凹地形
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    豊臣秀勝邸跡伝承地の碑と解説板と
    佐々木酒造の蔵の横に立つ徳川家康邸跡の碑
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    東西約32mの本丸南堀石垣が発見された辰巳公園の敷地にあるの案内板と目印の石と
    幅約26m、深さ8m以上の大規模な東堀跡が見つかったハローワークと向かいの石碑
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    考古資料館前期特別展示『秀吉の京都改造(令和8年11月23日まで)』で金箔瓦などがたくさん見ることができます。入場は無料です。まじかに金箔瓦が見れてよかったですよ。


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    関西高低差大学と大阪高低差学会の代表をしている新之介が運営しています。京都や大阪、奈良など関西の地形の面白さをわかりやすく発信するためにnoteを始めました。アースダイバー式まち歩きを実践。ブラタモリにも出ていました。

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