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商業捕鯨〜再開7年目

    ※日本が国際捕鯨委員会(IWC)から2018年末に脱退し、北海道でも2019年7月からほぼ30年ぶりに商業捕鯨を再開していた。

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    …たけだけしいイメージが先行しがちだが、勇魚いさな取で感心させられるのは、その今日的な意義だ。現在、気候変動問題や食料・エネルギーの安定供給が喫緊の課題となっているが、江戸時代の人たちは、SDGsを実践していたからだ。 北斎らと同時代人で、並外れて冒険好きだった画家兼随筆家・司馬江漢の著作に、その証拠が残っている。  

    ▽鯨に捨てるところなし  
    江漢は、江戸からはるばる長崎まで旅をしてきて1788年、今の長崎県平戸市の生月島に拠点を置いていた益冨組の船に乗り込んだ。たくさんの船で鯨を追いかけ、仕留める様子や、鯨の皮をはぎ、骨さえも細かく解体する様子をつぶさに観察した。益冨組は、臨時雇用を除いても約3000人が働いていた巨大企業体でその当主は有数の大富豪だった。江漢は、鯨漁から解体までの全工程を記録に残し「鯨に捨てるところなし」「筋は弓の弦になる。エラもいろいろな細工物になる」「鯨の肉、骨を数十人の人にて細かく切り、大釜に入れて油を煎ず」と書き残した。(※エラは、口の中にある鯨ひげと呼ばれる部位)  

    当時、鯨の油は灯油として使われたほか、稲に甚大な被害をもたらし、時に飢饉にもつながったウンカと言われる昆虫を退治する農薬としても使われていた。骨からも油を絞り、絞った後のかすは肥料にするなどして、捨てるところがないほどまで利用されていた。  

    ▽闘い終えて「南無阿弥陀仏」  
    鯨に海中へ引きずり込まれたり、船に体当たりされて海に投げ出されたりすることもある勇魚取。平戸市生月町博物館・島の館を訪ねると、勇壮な鯨漁には一見不釣り合いな、意外で印象的な場面が再現されて展示されている。 命懸けの闘いを終えた漁師の男たちは、息絶えようとする鯨に「南無阿弥陀仏」を唱えていた。 一頭で七浦を潤したと言われる巨大な鯨。昔の人は、その命を頂いたことを強く認識して敬意を示し、鯨の肉や油、骨も余すところなく利用していた。壱岐や平戸、五島には、鯨を弔った「供養塔」が多く残っている。

    ▽肉も骨も捨てていた米国式捕鯨
    栄華を誇った益冨組は、1850年代ごろから深刻な不漁が常態化し、明治初期に廃業した。 不漁の原因だったと指摘されているのが1820年代ごろから始まった、日本近海での米国による捕鯨だ。石油が普及する前の当時、米国は照明の燃料として鯨油を大量に必要としていた。 米国式捕鯨は勇魚取とは全く異なる。数年かけ世界の海を巡回し、鯨を捕まえては船上の大釜で脂肪層を煮て油を取り貯蔵。肉も骨も捨てていた。 ペリー率いる米国の黒船艦隊が1853年、浦賀に来港し開国を迫ったのは、捕鯨船に石炭やまき、食料を補給する拠点が必要だったからだ。

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    ※因みに、クジラのひげは、クリノリンスカートのフレームにも利用された。

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    クリノリンスカート
    • 唐突な商業捕鯨停止提案とIWCでの多数派工作

    • 捕鯨に関する日本の見解とかたくなな反捕鯨国の姿勢

    • 鯨を含む「カリスマ的動物」に対する規制の強化

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    日本がIWCに加盟していた当時の世界の商業捕鯨の状況
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    商業捕鯨再開から3年半時点での数字
     
     
    小比塚アンデン:ソフィアシューレ主催、『あ論』主幹。no-test、no-nukest、now-here man。旭川東高・上智大哲学科卒、法政大大学院で社会学修士号取得。英語指導の経歴:高校教師・進学塾学務主任・(昔、業者テストを手掛けていた会社の)通信教育テキスト執筆 。

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