
カフカのロシア像に映し出される東方ユダヤ像(試し読み版)
断片『却下』 ロシア像とユダヤ性 (林嵜)
はじめに
物語の舞台は、国境からも首都からもはるか遠い僻地にあり、国境紛争についての情報が流れてはくるものの、長い間政治的変革とは縁のない小さな町。その町の支配者は首都から派遣された徴税官長である。大佐と呼ばれているその徴税官長は、町の支配者としての正当性は疑わしいものの、町民が公式に請願をする際には恐ろしい兵士達とともに「世界の壁」となって町民の前に立ちはだかり、その請願に対して常に「却下」をもって応じる。奇妙なことに、町民たちは請願が却下されると安堵し、今やこの却下なしではやっていけないほどだ。語り手の子供時代の思い出としてありありと思い出される、町民総出の行事でもあるこの請願と却下は、必ずしも形骸化した儀式というわけでもない。ただし、不満を抱く若者たちもいる。彼らは「革命思想」の射程もわからない若造なのだが。
これは、中国物語群とも称される一九二〇年のカフカのテクスト群の最初のテクスト、つまりマックス・ブロートが『却下 ( Die Abweisung )』と題したテクストの粗筋である。このテクストは、一九一七年の中国物語『万里の長城が築かれた時』(以下『長城』)や『一枚の古文書』(以下『古文書』)のモチーフを継承していると指摘されてきたものの、その成立事情が不明だったこともあり、なぜ三年半を隔てたテクスト間にモチーフ上の関連が見られるのか、といった問題にまで論及が及ぶことはほとんどなかった。
この研究の停滞状況の打開のきっかけを作ったのは、『批判版カフカ全集』で『却下』を含むテクストの編集を担当したJ. シレマイトである。カフカの手稿を精査したシレマイトは、『却下』と一九二〇年八月二九〜三〇日のミレナ・イェセンスカー宛の手紙の両方にはっきりと認められる同様のペン交換の跡から『却下』の成立時期を推定しただけでなく、その手紙にでてくるロシア革命論への関心が『却下』成立の背景の一つとなっていることを示した。その手紙にはロシア論の中でも「私に最も強い印象を与えた」とカフカが言う、八月二五日のプラハ日報に載ったバートランド・ラッセルのロシア革命論の抜粋も添えられていた。
このシレマイトの発見を手がかりとし、カフカのロシアと革命への関心を彼の東ユダヤ的性愛秩序への関心に結びつける川島隆は、『却下』の末尾に付け足しのように添えられた部分を主にジェンダー論の観点から解釈し、『却下』について新たな読解の可能性を開いた。本稿では、カフカの他のテクストにおけるロシア革命問題のユダヤ人問題への書き換えも視野に入れた上で、シレマイトも川島も具体的に論じていない『却下』の末尾以前のテクスト部分を中心に論じることで、東方ユダヤと連想関係にあるカフカ独特のロシア像の一面を明らかにしたい。
一 ロシア二月革命の痕跡としての『長城』の二つのエピソード
まずカフカのテクストにおけるロシア二月革命の痕跡を探ることから始める。そうすることで、川島も示唆するように、これまで中国物語としてまとめられ、モチーフ上の関連を指摘されてきた『却下』と一九一七年の中国物語『長城』(の一部)や『古文書』が、ロシア二月革命に対するカフカの文学的反応という共通項によって結びつけられることが明らかになるだろう。ただし、カフカがテクストの中でロシア革命に直接言及することは稀である。言及箇所としては例えば、『判決』の中のロシアの「友人」が語った話として紹介される「ロシア革命についての信じられない話」以外には、ラッセル論文に触れた箇所くらいであろう。ラッセルが論じているのは一九一七年のロシア二月革命後のロシアなので、ここではカフカのロシア像について論じたW. J.ドッドがカフカ文学におけるロシア二月革命の痕跡かもしれないと述べる箇所 、すなわち中国物語『長城』末尾近くの削除された檄文エピソードを最初の手がかりとしよう。
『長城』の執筆推定時期とロシア二月革命の勃発時期(西暦では一九一七年三月中旬)はおよそ重なっており(順序としては中国物語『長城』の執筆中に二月革命が勃発したと思われる)、ドッドが指摘するように、この檄文エピソードに出てくる「反乱」は、三月一二日以降新聞で連日報道されていたロシア二月革命の影響のもとに書かれた可能性は高い。
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