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きっと私は渡らない

    部屋に入ってきたSさんの表情がよくないことが起きたのだろうと知らせていた。

    立ったままテーブルに両手をつき、じっと俯く姿にその場を一瞬のうちに静寂が包む。


    「Gさんが虹の橋をお渡りになりました」


    ああ……少し間を置いてゆっくりと顔を上げると、何か言いたげなEさんとNの視線があっちとこっちから私に注がれていることに気づく。




    感情を排し医学的な死を意味する「死亡」はネガティブな強さと生々しい直接的な響きを持つ反面で客観的事務的に事実を述べる報道やニュース、公的書類、法律あるいは医療文書などに適しているが、日常会話やお悔やみの場面などで用いるのは相応しくないとされている。

    それに比べるとやや情緒的な含みを持つ「息を引き取る」も通常は身内が亡くなったことを伝える場合を除き一般的には避けられる傾向にあり、故人やご遺族に対して敬意を込めた「死」の言い表し方にさまざま代えられてきた。

    「逝去」「永眠」「他界」「生涯/天命/天寿を全うする」「亡くなる」「お亡くなりになる」「(永い)眠りにつかれた」「旅立たれた」「帰らぬ人となる」、「無言の帰宅」の意味の取り違えがSNS上で話題に上がったのはつい最近のことだ。

    「亡くなられる」「ご逝去」「逝去される」

    これらについて、「亡くなる」「逝去」ともに「死ぬ」の尊敬語であるため誤りとの指摘がある。

    しかし、前者を尊敬語ではなく間接的な和語を用いる婉曲(えんきょく)表現とする見解もあり、後者は漢語の尊敬語ではあるものの漢文が日本で使われるうちに日本化した「変体漢文」において日本語特有の敬語表現が多用される中で「逝去」だけでは敬意を欠くとの考えから「亡くなられる」も、また厳密には二重敬語の「ご逝去」「逝去される」も伝統的表現として支持されてきた歴史があり許容する向きもある。

    詩的、文学的または哲学的な比喩表現はその多くがより柔らかい印象を受ける。

    「星になる」「風になる」「空へ還る」「土に還る」「(命の)花が散る」「波が引くように去る」「(命の/蝋燭の)灯が消える」「永遠の彼方へと」「役を終える」「舞台を降りる」「生涯/人生の幕を閉じる」すぐさま頭に浮かぶのはこれくらいだがもちろんこの限りではない。

    一方、「絶命」「絶息」「息絶える」など強く直接的なニュアンスを有する表現には、作品における書き手の意図を特に感じることがある。

    中学時代のある日、「父が召天しました」と親友A子から告げられた。恥ずかしながら当時『笑点』しか知らなかった私は(ショウテン?)と心の中で反復しながら、彼女の寂しげな微笑みから考えを巡らせることしかできなかった。

    帰宅して父に問うと、耳学問は身に付かずと言って辞書を引くよう促された。

    キリスト教ではカトリック「帰天(きてん))」 :神のもとに「天に帰った」、プロテスタント「召天(しょうてん)」 :神に「召された」というそれぞれを初めて知った夜を今でも覚えている。

    「成仏」「往生」「浄士へ往く」「(西方)浄土へ還る」「極楽へ往く」「仏に帰す」なども仏教における概念に由来するものであろう。




    『虹の橋を渡る』

    『ペットの死を悼む』意味を持つとも言われているが、大地震でペットを失った私自身口にすることはなかったし周りでも聞かない。

    プライベートで数々のペットを飼う同級獣医たちに尋ねたところ、彼らも彼らの親しい同業者たちも使わないなあと言っていた。

    この表現は長らく作者不詳とされていた英語散文詩『The Rainbow Bridge(虹の橋)』が元になっていることが判明している。

    スコットランド在住の芸術家であり動物愛好家のエドナ・クライン=リーキー氏が自身の愛犬メイジャーの死を偲び書かれた詩がアメリカの新聞コラムで紹介されたのをきっかけにその1節がペット愛好家の間で広まったようだ。

    1995年以降、米国著作権局に『虹の橋』とのタイトルで10件以上もの申請があり我こそが真の作者と名乗りを上げていたようだが、米アリゾナ州ツーソンで美術史家、作家として活動するポール・コウドゥナリス氏の根気強い調査によって詩に関係があると思われた二十数人の候補者を調べ上げ最後に残ったのがエドナ・クライン=リーキー氏だったと伝えられている。

    The Rainbow Bridge
    By Edna Clyne-Rekhy

    Just this side of heaven is a place called Rainbow Bridge. When an animal dies that has been especially close to someone here, your pet goes to Rainbow Bridge. There are meadows and hills for all of our special friends so they can run and play together.There is plenty of food, water, and sunshine, and friends are warm and comfortable. All the animals who have been ill and old are restored to health and strength, those who were hurt are made better and strong again, like we remember them before they go to heaven. They are happy and content except for one small thing, they each miss someone very special to them who had to be left behind. They all run and play together, but the day comes when one suddenly stops and looks into the distance, his bright eyes are shineing (sic), his body shakes. Suddenly he begins to run from the herd, rushing over the grass, his legs carrying him faster and faster, and when you and your special friend finally meet, you cuddle in a happy hug never to be apart again. You and your pet are in tears. Your hands again cuddle his head and you look again into his trusting eyes, so long gone from life, but never absent from your heart, and then you cross the Rainbow Bridge together.

    出典:The Order of the Good Death

    天国の入り口の少し手前には虹の橋と呼ばれる場所があります。この世界で生前誰かと特別に寄り添い暮らしていた動物が亡くなると虹の橋のたもとへ行くのです。

    そこには特別な仲間たちのために草原や丘が広がり、共にじゃれ合い走り回って遊ぶことができます。おなかいっぱいの食べ物、きれいな水、そして柔らかな太陽の光が溢れ、仲間たちは温かく優しいです。

    病気にかかっていた動物も年老いた動物もみんな健康と活力を取り戻し怪我をした動物たちはすっかりよくなって、私たちの記憶の中にある元気な姿で生き生きとそこで過ごしています。

    彼らは幸せに満ち足りていますが、たったひとつだけ心を満たしていないものがあります。なぜなら後に残してきた彼らそれぞれにとって大切な誰かがここにいないことを寂しく恋しく思っているからです。

    彼らが仲良く遊び走り回っていたある日、1匹の動物がふと立ち止まり遠くを見つめています。きらきらと輝き出した目が一点を見つめ、彼のその体は希望と喜びで震えています。

    突然仲間から離れ草原を飛ぶように走り出します。スピードを上げて。速く速く。

    視線の先にはあなたがいたのでした。

    そして、あなたと特別な仲間がついに虹の橋のたもとで再び出会った時、幸せを噛みしめながら抱き寄せて二度と離ればなれにならないようにぎゅっと抱きしめます。

    あなたたちは涙でいっぱいになり、もう一度あなたは彼の頭を抱き寄せ彼の信頼に満ちた真っ直ぐな瞳を見つめます。あなたの人生から長く失われていた間にも決して忘れることのなかったその瞳を。

    そして、あなたは天国へと続く虹の橋を渡って行くのです。愛する動物と一緒に。

    *かなり意訳しました。

    原文にはペットはやがて飼い主が亡くなった時に再会を果たし天国へと続く虹の橋を一緒に渡って行くとあり、「ペットが虹の橋を渡る」のではなく「虹の橋のたもとで飼い主を待っている」との意味合いが正しいだろう。

    虹の橋(の、たもと)は大好きな飼い主との再会を待つ場所であり、つまりペットが飼い主を置いて単独で渡って行ったりはしないのだ。

    とするならば、虹の橋はペット専用橋というわけではなく人も同様に「虹の橋を渡る」こと自体は可能かも知れないが、上述のように飼い主を待っているペットと人(飼い主)が揃って初めて渡れるのであってペット単体のみならず人(飼い主)単体が虹の橋を渡るとは考えにくい。

    この詩が「ペットとまた会える日が来る」という希望を与え、虹の橋の存在がペットとの別れに傷ついた飼い主の心の支えと寄り添う場所になっていることは想像に難くない。

    しかし、「ペットの有無に関係なくご自由に虹の橋を渡ってくださって構いません」そのように解釈を拡げられるとこの詩の世界観や言わんとするところが失われてしまうと感じるからなのか。ペットを飼わなかったGさんに用いられるのを聴いて冒頭EさんとNそして私は違和感を覚えた。

    昨今おしなべて謙虚さ?丁寧さ?を過剰に強調するような言葉づかいが増えている気がしてならない。「お亡くなりになられる」などという舌を噛むような珍表現が生まれる背景にもなっているように思う。

    「死」という、たいへん重く厳粛な別れに対して敬意を表すべきだが、どこかで見聞きした言葉や表現をなんとなくなぞるのではなく理解を深めた上で選択することが不可欠ではないだろうか。

     
     
    言葉を捏ねくり回す癖があります。

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