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這奇的見勢物語③~人の世を見世物に見立てて表現した黄表紙作品

     人の世のあれこれを、当時あった見世物みせもの小屋ごやに見立みたてて百科事典ひゃっかじてんのように表現したのが本作品である。
     
     黄表紙きびょうし「這奇的こはめずらしい見勢みせ物語ものがたり」は、山東さんとう京伝きょうでん作、京伝の浮世絵の師匠ししょう、北尾きたお重政しげまさ画、享和きょうわ元年1801年、蔦屋つたや重三郎じゅうざぶろう刊。
     三巻三冊の現代語訳(かなり意訳)を三回に分けて紹介する三回目、いよいよ最終回。

     


    下巻
    十二

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    おんばの国から生いけ捕どった鼻はなあらしの見世物みせもの
     おんば(乳母うば)の国から生いけ捕どったはなあらしというのは、顔は狸たぬき寝入ねいりのごとく、全身はアシカのごとく、いびきは嵐のごとく、宵よいにはうつらうつらと舟ふねをこぎ、夜中には寝相ねぞうの悪い象ぞうになり、朝は朝寝坊あさねぼうという鳳ほう(大きな鳥)に化ける。尻しりは重くて石臼いしうすのごとく。顔はふっくらとしてトラフグのごとし。
     これ、主人の恩おんを知らず、苦労するのをいやがって、なまけてばかりいる奉公人ほうこうにん根性こんじょうという、人間の皮をかぶった獣けだものなり。
     ついには、主人に見つかり、身みの皮かわをかがれて、追い出される。
     
    小僧「おんばどんのいびきは、うわばみのようだ。どりゃ、ちょっといたずらをしてやろう。」

     


    十三

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    とんだ霊宝れいほうの見世物みせもの
     頭は玉子の殻から、衣ころもはアラメの木蓮尊者もくれんそんじゃ(釈迦しゃかの弟子の一人)、エビの殻からの鬼に、シギの焼き鳥の罪人を串くしにさし、昆布こぶの釜かまの下では唐辛子とうがらしの火が燃えているのも、地獄じごくは地獄に違いなし。神かみ仏ほとけを信心しんじんするも、一心いっしんのまことがなければ利益りやくなし。「鰯いわしの頭も信心しんじんから」、飛とんだ霊宝れいほうの飛とび魚うおの三尊仏さんぞんぶつも、一心いっしんのまことがあれば利益りやくなきことなし。なにごともみな、一心いっしんのまことが大事なり。
     
     迷まよえば腐くさった縄なわもヘビに見え、悟さとれば小判こばんもセンベイに見える。みな、これ、心の仕業しわざなり。とはいうものの。小判がセンベイとは、どうしたって思われねえ。

     


    十四

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    よし駝鳥だちょうの見世物みせもの
     この鳥は、全身真まっ黒で、顔ばかり白く、常に石のように硬かたいコンニャクのおでんを食い、熱燗あつかんを好このむという。妖怪が出てくる「山海経せんがいきょう」にも「博物誌はくぶつし」にも、いまだに載のっていない名鳥なり。
    女「駝鳥だちょうで一つダジャレを言いたいが、さて、出ない出ない。正月三が日のうちに考えましょうといって、ちゃかしておくのさ」
    男「はてさて美しいなあ、忠臣蔵ちゅうしんぐら講釈こうしゃくに出てくる矢間やざま十太郎じゅうたろうの女房みたいだ」

     


    十五

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    鬼娘おにむすめの見世物みせもの
     昔から鬼となり蛇じゃとなるのはみな女なり。男の、鬼や蛇じゃとなるためしはなし。だから、女が第一につつしむべきは、悋気りんきと嫉妬しっとなり。女は心のせまいもので、疑うたぐり深ぶかいものなので、わずかのことにも胸むねに修羅しゅらを燃もやし、心の鬼が出て来て、生きながらやきもち地獄じごくへ落ちていく。おそるべしおそるべし。
     
    「東西とうざい東西とうざい、お目どおりにひかえましたる娘、器量きりょうはすぐれましたれど、悋気りんき深きむくいにて、心の鬼となり、サツマイモのようなツノがはえ、スイカの種のような歯をむき出し、舌したは浅漬あさづけのダイコンのごとく、背中には焼き飯(焼きおにぎり)のようなコケがはえ、肌はだは鳥肌とりはだだって、トウモロコシのようでござります。夜よな夜よなやけ酒を飲み、カズノコをくらいます。大酒は大きなどんぶりでお目にかけます。評判ひょうばん評判」
    「おそろしやおそろしや。ああ、いい見世物みせものだ。そんなにのぼせては鼻血が出てくる」
    「鼻血には、芝口しばぐちの太一庵たいちあんの金龍丸きんりゅうがんを飲まなくっちゃなるまい」
    「うらめしや。ももんがあ」
    「こいつは赤本のセリフみたいだ」 


    女が鬼になったり蛇じゃになる黄表紙は、こちらの第二巻参照、

     


    十六

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    珍物ちんぶつの見世物みせもの

    ▲めんや人魚にんぎょというのは、頭は切きり禿かぶろのおかっぱで、全身は作り物の鯛たいのごとく、白酒しろざけを飲み、草餅くさもちを食べ、泣く声は、「こぼんこぼん」という。

    ▲家いえの鼠ねずみというのは、頭の毛は伸びた無精ぶしょうな頭のようで、顔には青い筋すじがある。その家に生しょうじて、その家を滅ほろぼそうと計画する毒どく鼠ねずみなり。この鼠ねずみは、あら獅子じしという獅子ししに出会えば、たちまち化ばけの皮かわがはがれるなり。ついには鼠捕ねずみとりの石見銀山いわみぎんざんにて命を失い、悪事のしっぽをあらわし、地獄に落ちることは、みな毒悪どくあくの報むくいなり。

    ▲息子むすこの油あぶらは、親父おやじに取られるなり。この油は、何につけても何度も取れる薬なり。取り方は、針はりの入った牡丹餅ぼたもちを食わせ、真綿まわたで首を絞しめ、意見でおろして、お談議だんぎでつきこなし、じりじりと油を取る。
    親父「おのれ、あほうめ、忠臣蔵ちゅうしんぐらの天川屋あまがわやの丁稚でっち、伊吾いごのようにつつしめ」
    息子「あんまり油を取られて頭がふらふら、ふらつくふらつく」

    ▲小判こばんのぬけがらは、夕霧ゆうぎりが書いた文ふみ、伊左衛門いざえもんの小判のぬけがらなり。廓くるわ通いがすぎて勘当かんどうされた伊左衛門いざえもんは、夕霧ゆうぎりからの手紙をつないで服にして着ている(近松ちかまつ門左衛門もんざえもんの「夕霧ゆうぎり阿波鳴渡あわのなると」をもとにした歌舞伎かぶきの「廓文章くるわぶんしょう」から)。いくら金持ちでも、ぬけがらとなっては意味がない。これは、若い人には、よき戒いましめの見世物みせものなり。
     
    ▲六足ろくそくの駕かごは、四つ足よつあしのこたつはよく足をあたためてくれるし、三足さんそくの五徳ごとくはよく土瓶どびんを乗せてくれるということは「博物誌はくぶつし」にも見えるが、六足ろくそくの駕かごとは、はて、めずらしいなあ。

     


    十七

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    人の心の見世物みせもの
     看板かんばん付つきの者は、表おもて向むきは満足に生まれていても、心のかたわ者が多し。人の心が目に見えるものならば、よき見世物みせものなるべし。親の生んだ体のかたわはどうしようもないが、心のかたわは、自分の手でなおすことができるので、心をつけてなおすべし。
     看板かんばんにいつわりなしといえども、いつわりが多いのが人の心なり。看板かんばん付つきは立派りっぱに見えても、心の中に入ってみれば、あいそのつきることが多し。人の善悪ぜんあくは、看板かんばん付つきの見かけの良よし悪あしによらない。看板かんばん付つきをあてにして心を見るものではなし。
     
     心は独楽こまのごとく、心の心棒しんぼうがよくなければ、世の中を自由に回ることができない。心の心棒しんぼうがまっすぐならば、絹糸きぬいとの上でも剣つるぎの上でも安心して渡ることができる。
     心というものは、なんにつけても、とかく動きたがるものなので、心がよく落ち着くようにすべし。ものに迷いやすき人の心は、ジャグリングのように常つねに動いて落ち着かないので、つつしまねばならない。
    右の男「人の心は、手品の玉よりもなお変わりやすし。油断ゆだんすべからず」
     
     一本足の心は、進むことができず、退しりぞくこともできぬ。一生立ちっぱなしの心なり。
     
     両頭りょうとうの心というのは(右下の心)、心が二つありて、一つは東へ行こうとし、一つは西へ行こうとして、あれこれと心が定さだまらぬ。これ、心のかたわものなり。
     
     顔かたちは人間でも、四つ足の動物の心もある(右下の動物)。
     
    左下のセリフ「千番一番のかねあい、心にひずみのないところにはお気をつけられましょ~。どっとほめたり、ほめたり」

     


    十八

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    作者の見世物みせもの
     看板かんばん付つきが、あてにならないと言ったついでに、お目にかける見世物みせものあり。この作者の看板かんばん付つきは、沈金彫ちんきんぼりの舶来はくらいの唐机とうづくえにもたれ、花色木綿もめんのブックカバーに入った茶表紙の洒落本しゃれぼんをひねくって、なにやら文学者のように見えれども、心の中に入ってみれば、算盤そろばんパチパチと金の計算だけの大の俗物ぞくぶつなり。
     
    京伝「平たいらの康頼やすよりの書いた『宝物集ほうぶつしゅう』にも書き落した宝は算盤そろばん玉だまじゃ。昔、中国で宝石の原石げんせきを見つけた卞和べんかの宝にもまさって、商人の家には、これをこす宝はない。名玉めいぎょく名玉めいぎょく」
    パチパチ
    作者の見世物にて、本作はこれにておしまいおしまい

     


    ※文中に差別的な表現もあるが、時代背景を考え、そのままの表現としている。
     
     「女は〇〇だ」と、女性差別的な表現も多い。当時の男の常識として(⁉)女郎遊びを他の人以上にしていた京伝だが、その妻は遊女あがりの女性である。最初の妻、遊女菊園きくぞのと寛政かんせい二年1790年に結婚したが、寛政五年1793年に病死している。後妻は、寛政十二年1800年に遊女玉の井たまのい(結婚後は百合ゆり)を迎えている。
     この百合は、黄表紙「作者胎内たいない十月図とつきのず」(享和四年1804年刊)に登場し、作中で京伝にあれこれ指図さしずをし、なにやら京伝は妻の尻に敷しかれている様子だ。まあ、これは作者の創作かもわからないが、百合のために彼女の妹を養女にし、百合の生活のために店を開いたりもしている。自分の死後に残る妻のことを考えていたのだろう。
     時代的に差別的な表現は多いものの、人間京伝は、妻を愛する人だったのではなかろうか。
     
    「作者胎内たいない十月図とつきのず」はこちら、

     

     
     
    神戸からの風。 歓怒の文字は「歓喜」「怒り」「喜怒哀楽」を示し、「かんど」は漢字では「神戸」とも書ける。「感動」とも書ける。 毎週、日曜日、木曜日更新。

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