塩むすび
※この記事には以下の内容が含まれます。苦手な方は閲覧をお控えください。
・軽度なグロ表現
・希死念慮および精神的な不安定さを想起させる表現
塩むすび
本が読めなくなった。
急な事で何が何だかわからなかった。
終わった、と。ただそれだけ思った。
ページを開いたら一斉に文字が動き出して勝手に目から耳から流れ込んでくるみたいだった。
文字が全部砂になって崩れていくみたいだった。
きっかけはわからないし、わかりたくもない。
ただ漠然と、絶望感が残るだけだ。
文字の世界の中なら私は私でいられたはずなのに、そこにも居場所がないと面と向かって突き付けられたようだった。
じゃあ、私はどこにいればいいんだろう。
文字の次は音が聞けなくなった。
全部の音が同じ音量で耳元で流されているみたいだった。
近くの人も遠くの人も一斉に話しかけてくるみたいだった。
チャンネルの違うテレビが同時についているみたいだった。
全部の音が中途半端にうるさくて、聞こえているのに意味が分からなかった。
どこかに逃げたいのに、どこにも逃げられない。
どこならいいんだろう。
一人になりたいのに、一人になってもずっとうるさい。
もう、何もないところに行きたかった。
街を歩けば、全てが気に障った。
電車の音も、子供の泣き声も、誰かの噂話も、全部がうるさくて気持ち悪い。
幸せそうな人を見ると無意味に腹立たしくて殺してやる、と思うし、そんな自分も嫌だから直後に殺してくれと思う。
すぐにでも暴れ出しそうな怪物を、弱弱しい糸だけで縫い付けて抑えているみたいだった。
これが切れた時、私はどうしちゃうんだろう。
むしゃくしゃした。
全部捨てたくなった。
昔の私を全部全部壊してぐしゃぐしゃにして捨てたくなった。
引き出しの中をひっくり返して、紙という紙をゴミ袋にぶち込んだ。
本当はすぐにでも燃やしてしまいたかったけれど、出来損ないの私が燃やすより正しく処分したほうがいいと思った。
プロの業者に処分してもらった方が、ずっと綺麗で適切にこの世から無くしてくれる。
途中、昔書いたヘタクソな字が目に映った。
いつか何かのきっかけで書いた、何年も前の『今年の目標』。
有言実行。
ああ、そうか。そうだったんだ。
簡単なことだ。
殺してくれ、じゃなくて。自分でやればいいんだ。
死って言うのはゼロだ。
プラスにいる人間が死んだら、そりゃ絶望だろうけど。
でも、元からマイナスにいるなら、ゼロに戻るのはプラスだ。
無になりたい。
プラスにならなくっていいから、もうマイナスになりたくない。
戻ろう、ゼロに。
喜びは得られなくなるけど、でも悲しみももう増えないから。
耳の奥で鳴ってる心臓の音が、すごくすごくうるさかった。
まるで、頭を悩ませていた計算問題の答えがわかったときみたい。
久しぶりに、嬉しかった。
そうと決まったら早速実行だ。
どうしようか。どうするのがいいだろうか。
できるだけ綺麗に、跡形もなく消えたい。
でも、計画してたって思われるのは嫌だし、殺してくれって思うのはいつだって衝動的だ。
したいってなったその時にすぐできることがいい。
それからは毎日やる気に満ち溢れていた。
日常の中の『終わり』を探した。
駅にも、道路にも、家の中にもそれはあった。
やろうと思ったらすぐできそうなものばっかりだ。
なぁんだ、思ったよりいっぱいあるじゃん!
家に帰る途中、いつもの駅。
電車の走る音も、到着を知らせるアナウンスも、待っている人の笑い声も、全部いつも通り。
いつも通りだけど、全然気にならない。
たった三歩だ。三歩踏み込んだら、終わりが手に入る。
踏み込もうとした。けど。
そういえば、電車止めちゃった時って、賠償金かかるんだったな。
電車も遅れちゃうよな。
そこまで迷惑かけていいほど、価値のある人間かな。
きっと体は粉々になるけど、でもそれって痛いし綺麗じゃないし、なにより目立っちゃうな。
目立つのは、嫌だなぁ。
そう思っていたら電車が目の前に止まってドアが開いた。
体はいつも通りを覚えているから、気が付いたらもう電車の中に乗り込んですみっこの席に座っていた。
……今日は失敗だ。
風の強い日だった。
煽られて倒れた物干し台が大きな音を立てたものだから、慌てて外に出た。
ベランダに降りると、ごうっと風が吹いた。
目の前を横切ったビニール袋が、そのまま風に巻き込まれて下へと落ちていく。
それを追うように視線を動かした先は、コンクリート。
ベランダの柵に手をかける。
冷たい金属の感触にぞわぞわする。
このまま吸い込まれてしまえば、終われる。
そう思ったのに。
あそこにぶつかるのは痛いだろうなぁ。
ヒトの体ってそう簡単に潰れるのかなぁ。
でも、あれ?ここって何階だっけ。
三階からって、どうなんだろう。
大した事ないのかな。
怪我だけして終わるんじゃ損だな。
それに、ここから落ちたら大騒ぎだろうなぁ。
騒がれたく、ないな。
そう思ったら、自然に柵から手を放していた。
ああ、今日も失敗した。
ありとあらゆることを試そうとした。
でもダメだった。
誰にも迷惑をかけずに、誰にも見つからずに、できるだけ惨たらしく。
他者の手を煩わせずに、静かに、無になりたい。
でも、できない。
カッターを取り出して、肌に突き立てるだけ、ただそれさえままならない。
痛いのは嫌だ。汚いのも嫌だ。
本当は、自分の中に血とかいう赤くて黒くてベタベタしたものがいっぱい詰まっていることさえ嫌だ。
どっちつかずで情けなくて惨め。
引き返しようがないほど潔癖で嫌になる。
行き場のなくなった刃を、目に映ったティッシュの箱に突き刺す。
何度も。何度も。突き刺し、切り裂いた。
切れ味の悪いカッターは、厚紙でできたそれをボロボロにしながらなんとか傷を作った。
刺した傷よりも、刺そうとして握りしめた手の跡の方が目立った。
でも、こんなゴミカスより自分のほうがもっと情けなくて格好悪くて汚くてゴミカスだった。
最後に選んだのは、緩やかな終わり方だった。
食べなければ死ぬ、簡単な事だ。
生きるためのエネルギーをすっからかんにしてやればいつかは限界が来る。
その時を待った。
朝が終わって、昼が終わって、夜が来た。
でも何も体に入れなかった。
最初は苦しかったけど、少し経つと麻痺してくる。
苦しいのが普通になった。
グラグラ揺れる視界。
このままならようやく終われる、と。そう思った。
静かだ。理想的な終わりだ。
妙に頭がさえわたるような、そんな気になった。
手足が冷たくなっていった。
部屋の電気もつけずにいたから、夜が来た事がわかった。
真っ暗な中にいると、本当に世界に一人だけになったみたいだった。
とても、寒かった。
お腹が鳴った。うるさいくらいに鳴った。
頭とは逆で、体はまだ生きているんだと、そう主張した。
何度も何度も鳴った。
一度殴りつけたら静かになるかと思ったが、そんな訳はないのでやめた。
床に横たわってみる。
夜の床はもう冷たかった。
全身が冷たくて、寒くて、なんだかとても惨めな気持ちになった。
惨めになりたくなかったからこうしているはずなのに、今の自分の方がよっぽど惨めだった。
……なんでこんなことしてるんだろ。
このまま我慢すれば終われる。終われる。
一人で、静かで、ゼロになれる。
……終わってしまう。
そうしたかった、そうしたかったはずなのに。
なんでこんなに苦しいんだろう。
なんでこんなに心臓がうるさいんだろう。
なんでこんなにお腹が鳴るんだろう。
なんで、なんで、なんで、死ぬのってなんでこんなに難しいの!
気が付いたときにはもう、体が動いていた。
線路に飛び込むよりも、ベランダから落ちるよりも、肌を切るよりも一番衝動的に動いた。
手が勝手に動いていた。
電子レンジをつけた。
ラップにくるまれたまんまの米を中にぶち込んだ。
考えうる限り、最も暴力的な動作だった。
街の皆が寝静まった何も音のしない空間の中で、米を温める機械の音と心臓の音だけがうるさかった。
止まった機械から米を取り出して、ラップを開けて塩を投げつけた。
冷たくなった手より、米のほうが何倍も熱かった。
そのまま力強く握って、獲物を仕留める獣みたいに齧りついた。
しょっぱい。頭が痛くなるくらいにしょっぱい。
自分の咀嚼音と鼓動が不規則に混ざり合って気持ち悪い。
肌が熱い。
あんなに寒かったのに、今は焼けるように熱い。
ボロボロと崩れていく。視界が崩れていく。
溺れていく。零れていく。
死ぬよりも、生きるほうがよっぽど簡単だ。
体が生きようとしているから、食べるんだ。
他の命を奪わなきゃ、生きていけないんだ。
これが生きるってことなんだ。
私、死にたかったんじゃなくって、生きたかったんだ。
ちゃんと、生きたかったんだ。
漏れだしそうな呼吸を止めるように米をほおばり続ける。
赤子が泣くのは呼吸をするためだ、なんて。
いつかどこかで聞いたようなフレーズが脳裏をよぎる。
ああ、そっか。
そうか、たぶん、そうなんだ。
今、生まれ直したんだ。ここで。
今まで食べたおにぎりのなかで一番歪でしょっぱいおにぎりを食べ終わったはずなのに、口の中はずっとしょっぱいまんまだった。