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自己責任と言うほどに、責任が分からなくなっていく件

    1 思考実験: 「水切り」の名手

    思考実験をしましょう。

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    河原で「水切り」をして遊ばれたことはありますか? 私は下手で、水面を跳ねさせるのは友達の方が上手かったです。

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    そんな「水切り」の名手が、代々木公園や上野公園みたいに広い公園に出かけて、たまたま人が少なかったので安全だと思い、石を投げました。

    公園でジョギングをしていた方の、後頭部に当たりました。「自己責任だ! 避けないのが悪い。それに見えなかった」と述べたとしたら、この「水切り」の名手は言っていることおかしくないですか。

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    1. まず、石を投げる行為に伴う責任は、石を投げた人のものです。

    2. 次に、避けなかったと言っても、公園をジョギング中に後頭部に当たっているのだから、察知して避けることは困難です。

    3. そして、河原ではなく都会の公園で石を投げることは、石を投げる側の社会性も問われます。つまり、非常識ですよね。

    2 歴史的背景の復習

    日本の同調圧力を考えると、村八分みたいなことは現代でも起きますよね。「分をしれ」「わきまえろ」と言った価値観もあるし、「恥」ということも重視します。だから、元々集団的な規律を重視する文化はあったわけですよね。

    この集団規範が個人責任に転換された契機として、中曽根康弘元首相、マーガレット・サッチャー元首相、ロナルド・レーガン元大統領などの時代に遡ることができる、新自由主義の存在があります。

    「自己責任」は、国や社会や企業の責任を無視して、個人を抑圧して黙らせるのに、日本の文化と相性が良かったと、私は分析します。

    3 現実の問題と自己責任の使い方

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    例えば、子どもの貧困は、誰の責任なのでしょうか?

    あるいは、無国籍の方もいます。滝澤ジェロムさんの事例は、彼のお母さんが身勝手だと責めることは簡単です。

    けれど、彼は自分の責任ではない「無国籍」という状態から始めて、世を恨むのではなく、福祉の道を志しています。母校の大学に彼のインタビューがあることから、母校の仲間や先生達からの信頼を獲得するほど努力したと推察します。

    自己責任論は、新自由主義的な小さな政府と市場原理の最適化で論じるのなら、超人的に頑張る滝澤ジェロムさんのような若者を認めて励ますことに使うといいと思う。

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    LinuxをUSBの起動メディアで、例えばUbuntuなどをインストールすることに関して、「現時点の情報だよ」とか「コンピュータが起動しなくなるなどリスクがあるから、ご自分の責任でやってね」と免責事項を書くことは親切だと、私は思います。

    つまり起きてしまったことの責任を問うのではなく、リスクのある行動を説明する時に自己責任と使うことは、強調する意味が明確です。

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    誰の助けも借りなかったというマッチョな方のエピソードも、よく聞いてみると図書館が居場所やその方の学びたいことを支援していたりします。

    お腹を減らせることがない、塾に通うことができる、着る服がある。そんな当たり前のことが、無い人もいる。とくに深刻なのは、保護者からの虐待など、貧困だけでなく安心して大人になる環境が無い方もいます。これは、機会の平等が保たれていません。努力して結果を出したことは凄い。けれど、努力できる環境格差を無視して、機会が与えられていない方を責めるのは違うと思う。

    4 日本の同調圧力はどうする?

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    日本の同調圧力は、善悪ではなく伝統や文化もあるから、理解して接するのがいいと思う。

    例えば、新自由主義は、政府を大きくしないから官僚化により仕事のための仕事を行うような、手段の目的化を回避しやすいかもしれません。その代わり、再分配が苦手です。とくに、機会の平等を理解せずに行おうとすると、元々強い側が強くなる仕組みになり、弱い側は努力しても抜け出せなくなります。

    同調圧力も、こうしたデメリットを理解して付き合うのがいいと思います。

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    例えるなら、お酒を飲まない方が肝臓の負担や、車の運転などで、リスクは少ないです。けれど、お食事とお酒を飲む文化自体を否定せずに、リスクを理解して、責任ある行動をしますよね。

    5 結論

    自己責任論は、前提や文脈により、誰かを抑圧したり黙らせる使い方が出来ます。そんなことせずに、普通に批判したらいいと思うのです。それに、責任の所在が見えにくくなりますよね。冒頭の思考実験なら、公園でジョギングをしていた方の「石を回避する責任」は存在するのでしょうか?

    例えば子どもの貧困は複雑な要因があるはずだけど、子どもに「石を回避する責任」は無いですよね。なら保護者はどうでしょう。努力不足な方ばかりなのでしょうか。誰が悪いと責めるより、保護者さん達の職業訓練してたくさん稼げるようにすれば、たくさん納税してもらえるし、消費も増えるし、貧困問題も緩和出来ないでしょうか。

    “こどもの貧困”は社会全体の問題 こどもの未来を応援するためにできること | 政府広報オンライン
    https://www.gov-online.go.jp/useful/article/202303/3.html

    すでに火事が起きていて人命が失われるかもしれない時は、火を消して、再発防止が重要です。細かな責任は、後から分析するのはどうでしょう。我々の社会は、この順序が逆で問題解決が行いにくいように思うのです。

    サッカーのアナロジーを使うと、11人のチームが、退場に伴い10人で戦う状態を想像してください。自己責任論の誤用は、戦えるメンバーを9人、8人と減らしていく、非論理的な結果を招きます。「メンバー削減=社会力低下」を意味します。サッカーなら、敵に点を与えず、得点することが重要です。社会なら問題解決が重要では無いでしょうか?

    水切り→火事→サッカーとメタファーが、一見無秩序なのですが、個人と社会の関係性や責任と優先順位を考える時に、それぞれのイメージは補い合うことができます。

    行為に責任が伴うのに、なぜわざわざ「自己責任」と強調するのでしょう。使い方を見ていると「あなたの責任だから、我々は知らない」という意味で使われていませんか? 自己責任と言うほどに、責任が分からなくなっていく気がするのです。

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