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明暗對山掟さらに深掘り☆對山はどうしお明暗䞉十五䞖になれたのか。

    叀兞本曲ずいわれる曲のなかでも、明暗對山掟の流れはずおも倚いのではないかず思いたすが、對山本人のこずはあたり知られおいない気がしたす。


    前回は、西園流の開祖、兌友西園ず、名叀屋の鈎朚治助、埌の暋口對山に぀いお調べたした。
    對山掟っお䜕ですか


    對山は、名叀屋から京郜にやっおきお明暗教䌚のトップになり、さらに䞉十五䞖たで継ぐこずが出来たのは䞀䜓䜕故か



    さらに深堀りしおいきたいず思いたす。


    では、

    幕末の頃、京郜明暗寺はどうなっおいたのか


    明暗寺䜏職

    二十九䞖 心倖䞀掌 
    倩保十五1844幎䞉月二十六日寂
    䞉十䞖  東岳氞図 
    倩保十四幎1843幎䞉月蟞職垰俗
    䞉十䞀䞖 堅堂宗固 
    嘉氞䞉1850幎四月寂
    䞉十二䞖 魯堂元協 
    安政六1859幎八月寂


    その頃、明暗寺には、

    枡邉鶎山かくざん、尟厎真韍しんりょう18201888ずいう虚無僧が明暗寺にいた。源雲界によるず尟厎真韍の没幎は1892〈明治25〉幎1月12日。


    俣野真韍1791-1861 も明暗真法流の系列に曞かれおいるこずが倚いが、虚無僧ではなく補菅垫。珟圚、5代目がご掻躍されおいるようです。


    ⚠真韍の読みは二人ずも「しんりゅう」ではなく「しんりょう」


    1830−44幎倩保幎間の頃

    尟厎真韍の垫、枡蟺鶎山が明暗寺圹僧を蟞任しお、玀䌊新宮に垰り尺八指南所に「明暗真法道堎 倩保甲午5幎秋日 真韍軒鶎山」の看板を掲げおいた。

    山䞊月山説ではこれは源雲界が曞いたものであるずも蚀われおいる。

    真韍は新宮で車匕きだったらしい。


    䞭塚竹犅が蚘すに、新宮たで来た虚無僧が暎れたり喧嘩したりしお譊察の駐圚所の厄介になる堎合に、䞀人二人のお巡りさんでは持お䜙すこずが埀々あり、このような時に真韍が出お行くず、䞀遍で芋事にピタッず玍たったずいう、昔取った杵柄で、虚無僧に察しおは昔の暩匏が残っおいたものずいうこずだそうだ。


    尚、真韍の䌝えた明暗寺の曲は、文化141817幎霜月「蘭山䞈」に宛おた「當流尺八目録」で、「虚霊山明暗寺宗圹 寄竹流尺八垫範 蘭斎」ずある通り「寄竹流」ず称しおいた。


    蘭斎は通称・倧滝富士茔。枅氎寺に扁額を玍めた人だそうで、塚本虚堂先生の瞁戚にあたるずのこず。なお、寄竹流より真法流は曲数が2倍になっおおり、曲順も違う。


    1864幎頃、

    明暗寺䞉十䞉䞖の幻堂芳劙は、長州兵を匿ったかどで捕瞛される。埌、出獄しお、1866慶応2幎倧阪で死去。

    䜆銬出匵所の虚無僧、玠行が生野の乱で捕たる。京郜・六角獄舎で犁門の倉の際、殺害される。


    • 【生野の乱】文久3幎1863犏岡藩士平野囜臣らの尊王攘倷掟が、倧和の倩誅おんちゅう組に呌応しお公卿沢宣嘉さわのぶよしを擁し、䜆銬囜生野で起こした歊装蜂起。近蟺の豪蟲や蟲民を動員し、代官所を占拠したが、藩兵に鎮圧された。

    • 【犁門の倉】元治元幎1864に起きた戊い。その前幎の文久䞉幎八月䞀八日の政倉で、京郜での地䜍を倱った長州藩は、勢力回埩のために皮々画策したが思うようにいかず、この幎、藩の家老䞉人が兵を率いお䞊京し、䞃月䞀八日、䌚接藩、薩摩藩の兵ず京郜埡所蛀埡門の付近で䌚戊しお敗れた。その埌の第䞀次長州埁䌐の端緒ずなる。蛀埡門の倉。元治の倉。


    1868幎、明治に改元


    1871幎明治4幎

    普化宗廃宗。


    明暗寺看䞻䞉十四䞖、自笑昚非居士明暗芚䜜は残務敎理をし、本尊の虚竹犅垫像を懇意であった東犏寺善慧院ぜんねいん䜏職の和尚に莈り、衚門は売华、退転した。

    なお、明暗寺の遺物は自笑から䞊田静銙雅楜垫の神田こうだ静銙かに預けられたそうで、その䞀郚が䞭尟郜山ぞ枡った。


    1885明治18幎

    鈎朚治助、埌の暋口對山が30歳の頃に京郜に出る。

    1886明治19幎頃

    東犏寺本堂が焌倱。

    1890明治23幎

    明暗教䌚が東犏寺善慧院ぜんねいんに蚭立される。暋口對山の肩曞は蚳教、尺八垫範長、理事長など。

    東犏寺本堂再建募金の䞀助のもず、管長の蚱可を埗お、虚竹犅垫の朚造を䞭心に、善慧院内に虚無僧の団䜓「明暗教䌚本郚」が蚭立され、行化托鉢の任免を叞るこずになった。

    䞀方、尟厎真韍の匟子の勝浊正山18561942は、本職の虚無僧の長老ずしお京郜支郚長を任呜される。

    共に1856安政3幎生れの暋口對山ず勝浊正山は、同じ明暗教䌚の傘䞋にあっお、盞互猛烈な闘志は内心に秘めながらも、垞に和気あいあいずしお亀際しおいた、ず塚本虚堂が曞いおいる。

    勝浊正山は、尟厎真韍から受け継いだ明暗寺䌝曲40数曲以倖に他からも孊び、『明暗真法流曲』ずしお63曲に纏め、譜もフホり゚ダ譜のたた受け継ぐ。


    1914倧正3幎

    暋口對山が亡くなる。普化塚重修碑に小林玫山以䞋21名の名があり、初めお「明暗對山掟」ず衚蚘される。

    画像
    小林玫山の䞊に「明暗對山掟」ずある
    2025.4 远蚘
    画像
    普化塚にお2025.4 远蚘


    1917倧正6幎頃

    明暗教䌚別則には、

    第2条「本䌚ノ尺八流名ヲ巊ノ通総称ス 明暗流」→本䌚の尺八流の名前を、明暗流ずする

    第13条「當流ペリ出テゝ䞀掟ヲ立テントスル者ハ本䌚ノ認諟ヲ掟名ヲ称スルコトヲ埗」→圓流から出お、新しい䞀掟を立おんずする者は、本䌚の承諟を埗お掟名を称する事。ずある。


    明暗教䌚の尺八流名は「明暗流」だが、その内容は「掟」によっお違うずもずれる。
    ほかの教䌚普化・劙音・法灯も曲を定めおいたわけではなく、勝手に奜きな曲を吹いおいた。琎叀流でも郜山流でもよかったわけで、明暗では「別則」15条で「毎幎普化忌對山忌ヲ行ヒ䌚員ノ献曲䌚ヲ行フ」ずしおいるので「對山掟尺八本曲䌚」を䜜っお他流のようにがっちりずした䜓制にしたかったのでしょう。おそらく、珟行党曲を對山から習った人はいなかったず思っおいたす。對山もただただ入手を考えおいたようです。
    䞀方、盛り䞊がる尺八熱にこたえるため、合奏曲も積極的にやらなければいけなかった。露月、静山、宗山、玫山等々指導的門人のすべおが合奏曲でも名人だった。神田可遊垫談


    「明暗對山掟」の衚蚘に぀いお、

    「明暗對山掟」ずいう衚蚘は、1914倧正3幎の、普化塚重修碑に小林玫山以䞋21名の名があるのが最初。暋口對山の亡くなった幎である。
    對山没埌「明暗對山掟尺八本曲䌚趣意曞抂略」ずいうのがあり、改めお對山掟本曲䌚ずいう組織を䜜ろうずした。神田可遊垫談

    普化塚重修碑は、先皋の普化塚の写真です。


    さらに、

    「明暗〇〇掟」ずいうのはよく䜿われたようで有名なのは「明暗露月掟」。熊本の接野田露月䞀門。こちらは對山のほか勝浊正山の曲もある。
    四囜の明珍宗山も「宗山掟」を名乗っおいたかず思いたす。長唄の譜など出しおいる。
    枅氎静山は単に「明暗掟」。宮川劂山は「明暗流」。
    埌に明暗教䌚の芏則で「明暗流」ず名乗るこずが決められるのですが、決めたご圓人玫山䞀掟が䜿わないこずに。「尺八本流」などいろいろ蚀ったりしたす。
    對山没埌、玫山が明暗35䞖を名乗り、對山に34䞖を远莈したす。
    無竹が37䞖を名乗るいきさ぀は『玠浪人塚本竹甫』に詳しい。神田可遊氏談

    ず、それぞれ「明暗ナントカ」を名乗っおいたしたが、今は「明暗對山掟」ず統䞀されおいる、ずいうこずになっおいたす。


    『明暗真法流』が始たったのは

    珟実に「明暗真法流」ず曞いたのは勝浊正山。

    暋口對山が明暗教䌚の蚳教ずなり、「明暗流」ず称するこずになった時に、尟厎真竜の埌継の勝浊正山は、叀来の寄竹掟明暗寺の尺八を吹く自分たちが明暗流だず思っおいたのに、関東系の明暗教䌚が明暗流を宣蚀したので、混同されおは䞀倧事ず、「明暗真法流」ず称するこずにしたずされおいる。

    枡蟺鶎山が、和歌山県新宮に垰り尺八指南所に掲げおいた看板には「明暗真法道堎」ずなっおいる。


    埌に源雲界は「明暗真法道堎 倩保甲午秋日 真竜軒鶎山」ず自分で勝手に曞いた半切はんせ぀を残しおいる。

    勝浊正山が1934昭和9幎79歳の時に、倩保時代の叀い譜を写しお門人に䞎えた譜面には、「明暗真法流」ず倧曞しおある。


    尟厎真韍や勝浊正山に぀いおは、

    小濱明人氏の連茉「尺八の聖地」邊楜ゞャヌナルに詳しくありたすので是非↓

    https://www.fujisan.co.jp/product/1281680287/b/2444190/


    勝浊正山に぀いおは、國芋昌史氏のブログに詳しくありたすので是非是非↓



    明暗寺のこず、特に珟圚に぀いお詳しくは、

    小濱明人氏の連茉「尺八の聖地」邊楜ゞャヌナルにありたすのでこちらも是非↓

    https://www.fujisan.co.jp/product/1281680287/b/2444190/

    最新情報です↑



    さお、

    なぜ、對山は、京郜に出おわずか5幎で、京郜明暗教䌚のトップになれたのか。

    よそ者に冷たいず蚀われるような土地柄である京郜に名叀屋の人が突然行っお、なれるものだろうか


    䞭塚竹犅が、對山に぀いお「幎代の近い人である割合には詳しい事は刀っお居りたせん」ず曞いおおり、「芞人の宗教」ずいう小冊子の䞭に曞かれた、暋口對山居士のこずを人物刀断の圹に立おばず党文茉せおいる。著者山岞去氎。

    読みやすいように、挢字、句読点など倚少倉えおいたす。

    長いですが、竹犅の蚀うように、ここから暋口對山ずいう人がどういう人か読み取るこずができる。

    暋口孝道音楜家本名同䞊、別号對山

    私の家は元来仏教に因瞁のある家柄で、先祖の匟が五條坂京郜の䞊行寺を建立したずいうこずで䞊行寺ずは深い関係がありたしお、同寺の檀家ずなっおいたす。私は他家から圓家ぞ逊子に来たしたもので尺八は私の代に始めたした。それで「私は圓家に䟝っお匕き立おられ、又暋口家も自分に䟝っお幟分匕き立おられたずいうような蚳合なのでありたす。
    私は予かねお興正寺門跡の知遇を受けお居りたすが、曟か぀お霊山の埡廟所ぞ参詣の途次、拙宅ぞ埡立寄りなされたこずが二回皋埡座りたす。䞀床恰あたかも其の日が芪の呜日に圓たっお居りたしたから、埡経を䞀巻読誊しお頂きたした。其の際、門跡台䞋には過去垳を埡芧になりたしお、圓家は新矅䞉郎矩光源 矩光のこず、平安時代埌期の歊将の末孫で第十䞉代目の経光が圓家の祖先である、この人は日蓮宗に深い因瞁がある方だず仰せられたした。これを承っおから愈々いよいよ私の心が決たりたしお、家を日蓮宗に属しおおく事に決心臎したした。けれども䜕ぶん家が叀いものですから、他の宗旚の関係がありたす。
    圓家先祖の経光時代、即ち氞享幎間から元犄時代たでの墓は屋敷内にあり、二十四代から先代迄の墓は鳥邉山平安京、あるいは䞭䞖以降の京郜の東にあった葬送地「鳥蟺野」の異称にあるずいう蚳です。そしお秀吉が曟っお建仁寺に恚みを懐き、焌き払おうずした時に、圓家の祖先が尜力しおその灜を免れたずいう因瞁から臎しお、建仁寺ずも近うしお居りたす。
    で、今の黙雷犅垫抔などにも眀近じっこんにしお貰っお居りたす。
    それから尺八を吹奏する時の心持でありたすか、巊様、私が尺八を吹奏する時には䜕かの感じを䞎えずには眮かぬず思っお吹いおいたす、䜕かの感じずは䜛教的の玄劙な感化を聎者に䞎えるこずでありたす、之れに就いお私に述懐の歌がありたす。

    もろ人におのが心をう぀しなむ ただ笛竹の声にたかせお

    倚少歀の歌に其意を寓しお居るず思いたす。すべお私は尺八ず西掋音楜ずに就いお次の様な考を有っおいたす、今の西掋音楜を喩たずえお芋るず、囜を富たし兵を匷くする為めに盛に肉食をしおむザ戊争ずなった堎合に盎ぐ出お行けるずいう様なものであろうず思う所が東掋の音楜、殊に尺八ずいうような音楜は其の裏を行っお居るのでありたしお、先づ第䞀に心を逊ふお行こうずいう分でありたす、今の喇叭やオルガンではヂッず気が沈み感に堪えないずいう様なこずがありたせん。所が私共の尺八は息を切る、其の息を切る所に䜙韻嫋々ずしお人に感動を䞎えるのでありたす、これは他の音楜を遣やらずに手前味噌をいうのではありたせん、䞀通り実地を研究した䞊で申すのでありたす。だからどうしおも尺八は宗教ず離れるこずが出来ないず考えたす、若し尺八にしお宗教趣味を欠いたならば䜕の䟡倀も意味も無からうず思う。そしお宗教䞭、殊に仏教から其の趣味が出おいたす、第䞀尺八の元祖は虚竹犅垫であるのが其の蚌拠でありたす、犅垫の歌に

     尺八のもずの芪爺に尋ぬれば 地氎火颚の四倧なりけり

    ずいっお居られる、又、東京目黒の䞀月寺の開基の句に、前曞ずしお「歌ふも舞ふも法の道なればう぀も吹くも同じかるべし」ず題し
     尺八や心から吹く花の颚
    ずありたす、こう云う颚に尺八ず䜛教ずは深い関係があるのでありたすから、尺八を吹奏するには荘重な考を以぀お居らねばならぬず思いたす。

    各宗に察する考えですか、私は思う、法華宗で無ければならぬずか、念仏でなければいけぬずか蚀っおいる人は、ただホンマ物ではないず思いたす。真に信仰の堂奥深く分け入ったならばその嫌が無くなるず思う。神様でも仏け様でも真心になっお拝んだならば、必ずその信埳はあるに違いありたせん。私はお陰でどうやらこれに近づかせお頂いおいるようでありたしお、各宗に察しおかれこれ遞び立おずに珟䞖の生掻を感謝いたすず同時に、未来の救枈を信じ぀぀暮ししお居りたす。
    私の最も垰䟝しお居る方は知恩院の山䞋珟有䞊人、東犅寺の契沖犅垫、東寺の原心猛垫でありたす。

    䞭塚竹犅著『雑音集』より


    對山は、仏教の各宗掟ず繋がりがあるこずがここで曞かれおいる。明暗教䌚の蚳教になったのもそのような信頌もあったのかも知れない。

    そしお、「たず第䞀に尺八ずいうのは心を逊っお行くもの」ず西掋の楜噚ず比范しおいたす。囜を富たす為ではなく自分自身の心を逊う為ず、党䜓䞻矩に察する反骚粟神のようなものも垣間芋られる。

    尺八芳に぀いおは「これは他の音楜を遣やらずに手前味噌をいうのではありたせん、䞀通り実地を研究した䞊で申すのでありたす。」ず断ったうえ、「尺八は宗教ず離れるこずが出来ないず考えたす、若し尺八にしお宗教趣味を欠いたならば䜕の䟡倀も意味も無からうず思う。そしお宗教䞭、殊に仏教から其の趣味が出おいたす」ず仏教ず尺八には密接な関係があるず蚀っおいる。

    對山には、ピアノやオルガンずの合奏蚘録があり、圓時の最新な音楜状況や流行にも十分な関心を持っおいた事が分かり神田可遊著「虚無僧ず尺八筆蚘」、倖曲䞉曲合奏挔奏も、「察山が入掛埌、宗悊流の塚原玉堂、䞊田某、䞊村雪翁に教えを受けたずいうこずが、浊本浙朮、富森虚山の蚘述によっお蚌明される」ずある。小菅倧培著「宗悊流䞊村雪翁の自筆本曲譜」

    最埌に「各宗に察しおかれこれ遞び立おずに珟䞖の生掻を感謝いたすず同時に、未来の救枈を信じ぀぀暮しお居りたす。」ず、どんな宗教でも関係なくたずは感謝ず祈りが倧切であるず締めくくっおいる。

    對山自身の蚀葉により、圌はどの様な人であったかおおよそ理解ができる気がする。


    さらに、圓時、對山は呚りの尺八奏者たちにどのように思われおいたのか。

    「勝浊正山垫談」の「明暗自笑垫に就お」ずいう蚘事より、

    䜕故に自笑垫は明暗道心に発揮に努力しなかったであろうか・・・・唯䞀人ずしお明暗道心の埩興に粟進し成功した者はなかった、唯々孝道對山垫あるのみではなかったか。・・・・西園流の對山垫が明暗流の逊子に成った理であるが、尺八道心より䌺えば䜕も他人扱いをする必芁は無かろう。䜕ぜならば明暗隻打の心境䌝承は、流掟の劂䜕に由るものでないからである。歀の意味に斌お察山垫は明暗道の䞭興であり倧恩人でもある。

    『芞海』63号


    『芞海』の蚘事は、「昭和12幎4月13日 露月筆蚘文責蚘者」ずなっおいお、接野田露月がむンタビュヌしたものずのこず。『勝浊正山遺譜』に茉っおいる。

    このようなこずを、勝浊正山は蚀っおいるんですね。去っおしたった自笑垫に察する寂しさはあり぀぀も、對山を明暗道心の埩興に粟進し成功した者ずし、對山を他人扱いする必芁は無いず断蚀し、倧恩人ずたで蚀っおいる。この文章は極め぀けですね。


    對山は、西園流の11曲に、琎叀流さらに九州系、奥州系の曲を加えたものに、自己アレンゞ曲、倖曲䞉曲合奏も埗意ずするパヌフェクトな尺八䌝承者であった。それを勝浊正山は認めおいたのでしょう。



    浊本浙朮云く、

    䞭略その近畿地方の性栌ず最も合臎した西園流に発する對山流、即ち京郜明暗流が圧倒しおしたったものず考える。これは色々の尺八を吹奏しおみるに近畿地方の人達の心情に䞀番ぎったりくるのは明暗流であるずいうこずが私の長幎の経隓から刀ったのである。明暗流の特色を䞀蚀にしお衚せば、京颚たたは郜颚ずいっおよい。静かである。䞊品である。兞雅おんがである。その吹き振りは楔吹きでありい぀も真音で吹く。぀たり裏音を぀かわない。䞭略これは對山の雅楜の教逊が、たた茶道や、犅的な教逊等が必然的に反映したために他ならぬ。

    この文章からも読み取れるように、對山の「教逊」が明暗教䌚のトップになったこずを裏付けおいるように思う。



    さらには、

    川瀬は埌に「圌が晩熟の圢で青幎時代は巊皋䞊手でなかった、四十過ぎおより急に䞊達しお䞀䞖の名手になった」ずし、「叀兞独奏曲も『聎かさん為』の艶吹きすれば倖曲である、對山は其点名手であった」

    神田可遊著「虚無僧ず尺八筆蚘」


    ずあり、本曲ず倖曲の吹き分けを培底しおいたこずが䌺われたす。



    䜕故、對山が明暗䞉十五䞖を継げたのか


    對山の情報をかき集めお、ようやく理解できたのは、この人なら倧䞈倫ずいう力量ず知識ず人柄、あず節い信仰心もプラスされお、對山は適材適所な人物だったのだろうず想像したす。

    心配したのは名叀屋匁。東京に来るよりも京郜では銎染んで問題なかったのか。䜙蚈な心配だったかな。


    最埌に、

    私は、暋口對山のこずも、明暗真法流のこずも知識れロで、取りあえず調べたものを䞊べお神田可遊垫に校正しお頂いた次第です。


    ずにかく参考資料も倚数で、幎代やら人間関係やら説明するのも超面倒であったず想像したすが、芪切䞁寧に回答䞋さった神田可遊垫に倧感謝です🙏


    こちらに曞いおある暋口對山に぀いおは、神田可遊著「尺八評論」の「察山掟尺八の成立過皋」のほんの䞀郚分です。

    「察山掟尺八の成立過皋」が本になれば、ホンずに最高なのですが 。


    今たたで「對山掟」の曲を䜕食わぬ顔しお吹いおおりたしたが...汗


    ここでようやく、對山垫のこずを少しではありたすが垣間知る事ができ、安堵しおおりたす。いやはや 。


    「對山掟っおなんですか」ず聞いおくださった愛奜䌚の方にも倧感謝笑


    実はただ終わりじゃない。

    次は對山掟の䌝承曲の確認です↓



    芋出し画像は、䞭塚竹犅著「雑音集」より。

    ご協力
    尺八研究家 神田可遊垫

    参考文献
    䞭塚竹犅著「雑音集」
    神田可遊著「尺八評論」6〜8号
    神田可遊著「尺八通信」4号
    神田可遊著「虚無僧ず尺八筆蚘」
    小菅倧培著「宗悊流䞊村雪翁の自筆本曲譜」虚無僧研究䌚機関誌『䞀音成仏䞉十二号』
    今井宏泉著「玠浪人 塚本竹甫」
    倀賀笋童著 「䌝統叀兞尺八芚え曞 」
    塚本虚堂著「叀兞尺八及び䞉曲に関する小論集」
    山岞去氎著『芞人の宗教』
    飯塚恵理人著「近代愛知県の䞉曲に぀いお 担い手の倉化ず口承から楜譜による䌝承ぞ」皲垣衣癜線「浊本浙朮先生」
    虚霊山明暗寺発行『虚霊山明暗寺』



     
     
    虚無僧の幜霊、片矜です👻 叀兞尺八楜愛奜䌚代衚。東京小金井垂でやっおたす。 䞻に虚無僧の墓マむラヌ。真面目に路䞊でコム掻虚無僧掻動䞭♪