
卵も、切れました│拝啓文芸部│残されたメモ
こちらに参加させていただきました。
別れ話をしたのは、日曜の夜だった。
「あなたは、大事なことを何も言わない」
わたしがそう言うと、彼は少し黙ってから、「そうかもしれない」と頷いた。言い返してほしかったのに、彼は言い返さなかった。
五年いっしょに暮らして、彼が残した言葉のほとんどは、冷蔵庫に貼られたメモだった。
《醤油、詰め替えた》
《ゴミは火曜》
《傘、玄関に置いといた》
好きだとか、ごめんだとか、そういう言葉がマグネットの下に挟まれたことは、一度もない。
月曜の朝、目を覚ますと、彼の歯ブラシがなかった。玄関の靴も、本棚の半分もなくなっていた。
冷蔵庫には、いつものメモが一枚、貼ってあった。
《卵はあと二つ。牛乳は明日まで。君の好きなプリンは一番奥》
声を出して笑ってしまった。別れ話の翌朝なのに、卵と牛乳の話しかしていない。
卵を二つ焼いて、ひとりで食べた。牛乳はコーヒーに入れた。メモに書いてある通りだった。
プリンだけは、開けられなかった。
冷蔵庫を開けるたび、一番奥の小さなカップが目に入った。見なかったことにして、扉を閉めた。
会社でも、帰りの電車でも、プリンのことを考えていた。ばかみたいだと思った。
夜十時。冷蔵庫の前にしゃがみ、プリンを取り出した。
近所のケーキ屋の、少し高いほうのプリンだった。給料日にだけ、彼が買ってきてくれたものだ。
蓋をめくろうとして、指が止まった。
蓋の上に、小さな付箋が貼ってあった。
《明日も買ってくる》
しばらく、その一行を見ていた。
好きだとも、ごめんとも書かなかった人が、明日の話をしていた。
ずるい、と思った。
プリンをひと匙ずつ、ゆっくり食べた。少し甘すぎて、ちょうどよかった。
空になったカップを洗って、ペンを取った。冷蔵庫に、新しいメモを一枚貼る。
《卵も、切れました》
マグネットの下に挟んだその一行は、たぶん、わたしが五年でいちばん素直に書いた言葉だった。
____了