
過ちのあとで、自分を追い詰める足を止めた
送ったあとで、言葉を間違えたと気づくことがある。
画面に残った文章を読み返す。
どうして、もう少し待てなかったのだろう。
なぜ、あんな書き方をしたのだろう。
取り消せないとわかると、頭の中で何度も同じ場面をやり直す。
別の言葉を選んでいた自分。
送信する前に手を止めた自分。
相手の事情を想像できた自分。
現実には存在しなかった自分ばかりが、あとから現れる。
そのたびに、実際の自分が少しずつ許せなくなる。
過ちそのものより、そのあとにどう反応するかが大きな意味を持つ。
そんな言葉に触れたとき、私は毒蛇を追いかけるという比喩に、よく似た記憶を思い出した。
傷つけられたあと、相手の言動を何度も思い返す。
自分が間違えたあと、なぜあんなことをしたのかと問い続ける。
原因を確かめたい。
責任の所在をはっきりさせたい。
もう二度と同じことが起きないようにしたい。
そう思って追いかけているうちに、傷は出来事の中だけでなく、現在の時間にまで広がっていく。
ただ、「人を傷つけるのは出来事ではなく、自分の反応だ」と言い切ることには、ためらいもある。
誰かの行為によって、本当に傷つくことはある。
裏切りも、暴力も、軽く扱われた記憶も、受け止め方だけの問題ではない。
傷ついた人に、反応を変えればよいと伝えることは、痛みの責任まで本人へ戻してしまうことがある。
過ちを犯した側にも、実際に引き受けるものがある。
だから私が引っかかったのは、傷が存在しないということではなく、その傷を受けたあと、自分の残りの時間を何に渡すのかという部分だった。
以前、仕事で大きな間違いをした知人がいた。
確認を一つ怠ったことで、取引先にも同僚にも迷惑をかけた。
彼はすぐに謝り、対応に動いた。
表面上は、しばらくして問題が収まった。
けれど、彼の中では終わらなかった。
メールを送るたびに、また見落としている気がした。
会議で意見を求められても、自分の判断は信用できないと思った。
周囲が気にしていない様子を見せると、かえって苦しくなったという。
自分だけが忘れてはいけない。
簡単に立ち直れば、反省していないことになる。
そんな気持ちがあった。
彼は過ちを繰り返さないために振り返っているつもりだった。
けれど実際には、あの日の自分を何度も裁いていた。
「間違いを犯した人」という一つの姿に、自分全体を閉じ込めていた。
そのうち彼は、仕事を任されても、必要以上に確認を求めるようになった。
決めることを避け、誰かの承認がなければ動けなくなった。
過ちから学ぼうとしていたはずなのに、過ちを恐れるあまり、自分が持っていた力まで使えなくなっていた。
ある同僚が彼に、「もう忘れていい」とは言わず、「あのことから、何を変えたの」と尋ねた。
彼は、確認の手順を見直したこと、判断に迷ったときの相談先を決めたことを答えた。
すると同僚は、「それなら、今のあなたは、あのときのあなたと同じではない」と言った。
その言葉で、彼が急に自分を許せたわけではない。
今でも似た場面になると身体が固くなるという。
ただ、過ちを忘れないことと、過ちの中に住み続けることは違うのかもしれないと思えた。
責任を引き受けるとは、自分を長く罰することではない。
謝ること。
できる範囲で償うこと。
何が起きたのかをごまかさず、次の行動に残すこと。
そこまでしたあとも自分を責め続けるのは、誠実さというより、傷ついた自分をあの日へ縛りつけることになる場合がある。
他者から傷つけられたときも、似たことが起こる。
相手を許せなくてもいい。
すぐに意味を見つけなくてもいい。
距離を取ることや、怒りを抱くことが、自分を守る反応になることもある。
毒を取り除くというのは、痛みをなかったことにすることではないのだろう。
身体の中に何が入ったのかを認め、これ以上広がらない形を探すこと。
誰かに話す。
離れる。
言葉にする。
まだ触れられないものとして、しばらく置いておく。
何が自分を助けるかは、人によっても、その時期によっても違う。
世界は変わらない。
起きたことも、口にした言葉も、消せない。
それでも、過去を追いかけるために使っていた力を、今ここにいる自分へ戻せる瞬間がある。
それは相手を許した証でも、過ちを忘れた証でもない。
傷の続きを、自分のすべてにはしないという、静かな境目なのかもしれない。
私はいま、何かを正すために過去を見ているのだろうか。それとも、自分を罰するために、同じ場所を走り続けているのだろうか。