
[9/24] 計算どおりにいかないときに思い出したい数学のはなし。ジェロラモ・カルダノ
計画通りに進まない現実。あるいは、どう計算しても辻褄が合わない矛盾。
私たちは日常の中でそんな壁にぶつかったとき、思わずこう叫びたくなります。こんなはずじゃない、この現実が間違っていると。自分のこれまでの経験や理解という枠の中に引きこもり、目の前で起きている不都合なエラーを、すぐに間違いとして切り捨ててしまいたくなる。
そのほうが、よっぽど安心で楽だからです。しかし、本当に新しい世界や、まだ見ぬ次元へたどり着くためには、その安心の枠を一度手放さなければならない瞬間があります。
数学の歴史、そして私たちが向き合う知性のあり方は、まさにそのことを鮮やかに教えてくれます。
カルダノの衝撃
16世紀のイタリア、数学者ジェロラモ・カルダノは、著書アルス・マグナの中で、方程式を解く過程で奇妙な壁に突き当たりました。
たとえば という計算から導かれる のような表現に直面したとき、彼はそれを精神的な拷問(mental tortures)を伴うものとして書き残しています。
実在しないはずの数、人間の理性の枠から外れたその影を、当時の数学者にとっても容易には受け入れがたいものでした。しかしカルダノは、それを単なる間違いとして完全に消し去るのではなく、その不気味な式を書き残しました。
そして、その居心地の悪さのど真ん中に踏み込んだのが、後の数学者ラファエル・ボンベリでした。
たとえば という方程式には、明らかに という実数解が存在します。しかしカルダノの公式に当てはめると、途中に のような負の平方根がどうしても入り込んでしまいます。
当時の常識ならここで計算終了、エラーと切り捨てるところを、ボンベリはこう考えました。「では、この奇妙なものをそのまま計算してみよう」
彼はこの奇妙な式を、 を用いて計算できるものとして扱い、二つの項を組み合わせると、やがて実数の が現れることを示したのです。得体の知れないおかしなものをすぐに排除せず、そのルールのなかに留まってみせたこと。そこに、数学の新しい扉が開く瞬間がありました。
分からないものを抱え込む知性
自分の経験や、過去にうまくいった枠の中に閉じこもることは、たしかに安全で楽な道です。
計算が合わない現実を相手が悪い、世界が出鱈目なのだと切り捨ててしまえば、一時的なプライドや平穏は守られるかもしれません。
しかし、それでは決して、これまでの枠の外側に広がる新しい数学の景色にはたどり着くことができません。
この姿勢は、イギリスの詩人ジョン・キーツが詩人に必要な資質として語った負のケイパビリティ(Negative Capability)、不確実さや、懐疑、矛盾の中にいながらにして、せっかちに事実や理由を求めようとしない能力にも通じているように思えます。
開かれた知性とは、まさにこの負のケイパビリティそのものです。
自らの枠が軋む痛みに耐え、矛盾という嵐のなかで、自分の理解のほうが間違っていたのかもしれないと謙虚に耳を澄まし、新しいシグナルをじっと待つこと。その姿勢のなかにこそ、知性がこれまでの枠を越えていく可能性があるのではないでしょうか。
世界は私たちが思う以上に複雑で、出鱈目で、計画通りには進みません。
だからこそ、私たちは自分の小さな枠に閉じこもるのではなく、矛盾を抱え込む器としての開かれた知性を持ちたいと思うのです。
計画が狂ったとき。計算が合わなくなったとき。
それをすぐに失敗と決めつけるのではなく、まだ知らない何かがあることを示す、未知の扉として見つめてみる。
不確実な現実のなかで、自分の前提を手放し、目の前の事実と静かに向き合うこと。
その先に、私たちがまだ知らない広大な景色が広がっているのかもしれません。
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