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【微笑みの文学】「ぬん文学」で遊ぶ~ナンセンスとノンフィクションの間に

    こんにちは、きのころです。

    FPで、司書で、多趣味。
    そんな属性をパズルのように組み合わせながら、
    何があっても「生きのころー!」をテーマに、毎日noteを書いています。

    本日の記事は、笑芸家(笑いの文学家)初代王天君さんによる、
    「〈ぬん学〉って何?」という募集企画への投稿として作成しました。

    ※ネタ論文ですので、すべて冗談としてお楽しみいただけますと幸いです。


    「ぬん学」事始め

    「ぬん」とは、多くの人が口にしたことがありそうで、しかし実際には誰も本当には理解できていない謎の文字列である。

    従来の研究は、その正体を解き明かすどころか、むしろ謎を深めるばかりの袋小路だった。

    たとえば、『ぬん学概論』(ぬん明書房、2023)は次のように述べている。

    ぬんは、“ん”と“ぬ”の不可逆的な隙間に生じる音響的ゆらぎである。
    その周波数は測定不能であり、観測は測定者、被験者、あるいは測定機器そのものが眠気を催した時のみ可能となる。
    よって、ぬんの研究は、“半睡学”(まどろみがく)である。

    眠笑四郎『ぬん学概論』より

    ――正直、読んでもさっぱり意味がわからない。

    だが私は、この「半睡学」という不可解な表現を念頭に置き、「ぬん」という文字列を、七日七晩、じっと眺めてみた。

    すると奇妙なことに気がついた。

    「ぬん」は、「なん」と「のん」のちょうど中間に位置しているのだ。

    「なん」はナンセンス、「のん」はノンフィクション。
    ならば「ぬん」は、その両者が混ざり合う中間地点の響きなのではないか。

    居眠りのまどろみが夢と現実の境界を行き来するように、
    「ぬん」という概念もまた、ナンセンスとノンフィクションを揺れ動く。

    つまり従来の研究が無意識に示していたのは、
    ナンセンスとノンフィクションの中間領域――

    「ぬん的中間地帯」の存在だったのではないだろうか。

    そこで私は、「ぬん」について、次のように考察してみた。

    ナンセンスは跳躍の技法であり、ノンフィクションは堆積の技法である。
    両者が正面衝突すれば崩壊する。
    だが、双方が互いを希釈しあった瞬間、そこに「ぬん的中間地帯」が現出する。

    きのころ『ぬん文学序説』より

    こうした観点から、私は、「ぬん」を「ナンセンス」と「ノンフィクション」の中間地点に生成される独自の領域として理解するに至ったのである。


    「七日七晩」の考察

    ところで、私は、実生活の中で「七日七晩」という表現をよく使用する。
    「寝ても覚めても」という状態の、やや大げさな表現。

    現実と戯言の中間であり、ユーモア表現であることは明らかである。

    しかしよく考えてみると、この「七日七晩」という言葉自体が、実に「ぬん」的ではないだろうか。

    たとえば「三日三晩」という、辞書にも載っている日本語。

    これは現実の感覚に即した表現であり、徹夜の苦労や宴の熱気を「のん」(ノンフィクション)的に描写するものだ。

    「三日三晩、眠り続けた」と言えば、多少の誇張はあれど、現実に即した出来事として理解できる。

    だが一方で、「七七日七七晩(なななのかなななばん)」とまで誇張するとどうだろう。

    もはや人間の生活リズムから逸脱し、荒唐無稽な「なん」(ナンセンス)的世界に突入する。

    「四十九日法要」のようでもあり、むしろ「迷わず成仏してほしい」という意図せぬ宗教的ニュアンスさえ帯びてしまう。

    つまり――

    • 三日三晩 = のん(現実寄り)

    • 七七日七七晩 = なん(戯言寄り)

    そして、そのちょうど間に浮かんでいる「七日七晩」こそ、
    ぬん的中間地帯なのである。

    日常的リアリティからは少し遠ざかり、かといって完全な荒唐無稽でもない。

    ありそうでなさそう。
    信じられそうで信じられない。

    この「七日七晩」という響きが、人々に一種のまどろみを与えるのは、その語感がすでに「ぬん」を体現しているからだと考えられる。


    「ぬん文学」の発見

    さて、「ぬん学」とは、このあいまいで不可思議な「ぬん的なるもの」を観察し、定義し、分類する高尚な学問である。

    研究者は「ぬん」の出現条件を整理し、場合によっては統計をとり、論文にまとめようとする。

    私はまず、「ぬん」の正体を「ナンセンスとノンフィクションの中間に生成する領域」と仮定した。

    そして、その視座に立って自分の過去作品を分析してみたところ、思いがけない事実に行き当たった。

    それらの諸作は、机上の仮説をなぞるだけではなく、むしろ、「ぬん」を無意識に実践していたといえる実例の宝庫だったのである。

    「ぬん」を実践して生まれた作品を、以下では「ぬん文学」と呼称する。

    私は「ぬん学」の研究者の末席にいるつもりで、実は「ぬん文学」の先駆者(自称)
    だったのである。

    ここで用語の定義を整える。

    ぬん学:
    「ぬん的なるもの」を観察・定義・分類する学問。
    すなわち――

    • 座学である(机上で考える)

    • 地図を描く(世界をどう捉えるかを示す)

    • 定義を示す(曖昧さに枠を与える)

    ぬん文学:
    「ぬん的なるもの」を表現・体験・実験する文学。
    すなわち――

    • 実技である(まずやってみる)

    • 旅に出る(世界をどう楽しむかを試す)

    • 体験を積む(曖昧さそのものを遊ぶ)

    両者は対立しない。むしろ鏡像である。

    ぬん学が描いた地図は、ぬん文学の旅路を安全にし、
    ぬん文学が切り拓く獣道は、ぬん学の地図を更新する。

    たとえば、パロディが現実の堆積を跳躍でゆるめる瞬間。
    あるいは、写真という事実に、虚構のキャプションが着地脚を与える瞬間。

    その呼吸は、まさに「ぬん的中間地帯」で観測される生態反応なのである。


    実例:ぬん文学の三類型

    ぬん文学の世界を整理するために、ぬん文学の三類型(ART/MAP/USO)を提示し、私の実作をケーススタディとして配することで、ぬん世界の地図を具体的に色分けしていく。

    (1) ART(編集の技法)

    • ART = Assemble, Remix, Transform(集合・再編・変形)

    • 実在の素材を集め(Assemble)、再構成し(Remix)、新しい形・意味・枠組みに変える(Transform)。

    <例>
    ①『昭和キッズあるある100連発』
    昭和の遊びやお約束を百科事典っぽくまとめた作品。事実を素材にしつつ、過剰な脚色により「ぬん」が立ち上がる。

    ②『気分で選ぶ音楽スタイルカタログ』
    人生を彩る音楽ジャンルを「スタイル」として分類。ぬん的な小道具として「ムードもりあげ楽団」も登場する。


    (2) MAP(投影の技法)

    • MAP = Mind Add-on Projection(心のアドオン投影)

    • 現実世界に心のアドオン(想像や妄想など)を重ねて投影し、日常を「もしも」や「さらに」で拡張する。

    ①『とんぼのめがねは瑠璃色めがね』
    1枚の写真から連想した童謡のイメージを宇宙的スケールまで拡張。宇宙を飛ぶトンボの視点から地球をイマジン(ぬん)する。

    ②『妖精のいる家庭菜園』
    小さな生き物が暮らす家庭菜園というリアルな風景に、擬人化・妄想スコープによって、幻想世界を念写(ぬん)する。


    (3) USO(虚構の技法)

    • USO = Unidentified Story Object(未確認 “物語” 物体)

    • 現実にフェイクやフィクションを混ぜ込み、USO800(ウソハッピャク)で味付けした物語やパロディとして提示する。

    ①『多趣味党宣言』
    架空の政党のマニフェストをぬん的に展開する、現代社会への提言、あるいは妄言。

    ②『真夏のホラー劇場…改め「ホラ劇場」』
    美術館のオブジェが人を襲う……そんな嘘のようなUSO(ぬん)をホラー、もとい「ホラ話」として展開する。


    「三類型」が示すこと

    こうして見ていくと、ぬん文学は単なるナンセンスやノンフィクションではなく、両者を「編集」「投影」「虚構」という技法で組み合わせる行為であることがわかる。

    そして、それぞれの作品がどこかで現実の手触りに触れながらも、笑いや驚きに着地している――

    この両義性こそが「ぬん」の醍醐味なのである。


    結論:ぬんは生き方である

    ぬん学とぬん文学を往復するうちに、やがて見えてくることがある。
    それは、単なる理論でも、単なる作品でもなく、もっと根源的なもの。

    ――そう、ぬんとは、生き方そのものなのだ。

    世界を冷徹に観察するだけでは、人は息苦しい。
    かといって、ただ笑い飛ばすだけでは、現実から遊離してしまう。

    両極のあいだを揺れ動きながら、時に真面目に、時におどけて、
    「世界をまじめに遊ぶ」こと。

    それこそがぬんの力であり、ぬん的なる者の作法であり、
    そして私たちがこの時代を生き抜くための、
    ひそやかで、おごそかな哲学なのである。

    事実を笑いに変える力。
    ナンセンスを現実に着地させる力。

    その相互作用こそが、ぬん学とぬん文学の交差点に立つ者に与えられた、
    最大にして唯一の特権であると、私は結論づけたい。

    そして、この論文そのものもまた、「ぬん」の実践である。

    よって、私という作者の存在も、あなたという読者の存在も――
    きわめて曖昧……つまり、まあ、「ぬん」なのである。


    たくさんのnoteの中から、私の記事を見つけて読んでいただき、
    ありがとうございました。
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    どうぞ、よろしくお願いします。

    <第二弾です>


    #初代王天君の企画  #ぬん学

     
     
    関西在住。1級FP、独立系司書。50代でFIREを達成し、 何があっても「この先、生きのころー!」をテーマに 自称「マルチ・ポテンシャライター」(多趣味ライター 的な造語)として活動。今まで読んだ5000冊以上の本 から生まれたアイデアをもとに、童心で楽しむ日常 や創作を発信中。

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