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「創作大賞」にエッセイ部門は必要なのか?~七日七晩、本気で考えてみた!【120日連続投稿】

    こんにちは、きのころです。

    FPで、司書で、多趣味。
    そんな属性をパズルのように組み合わせながら、
    何があっても「生きのころー!」をテーマに、毎日noteを書いています。

    はじめに

    50代でFIREを達成しました。
    ゴール目前で退職して、もったいないと言われることもあります。

    でも、私は、これからの人生の「残り時間」を考えて、自分のやりたいこと、今までできなかったことに全力でチャレンジする人生を選びました。

    そのチャレンジの1つが「創作大賞」。

    「note創作大賞2025」へのチャレンジを決めてから、どういう作品で応募しようか、毎日そればかり考えていました(笑)。

    FIREしてから、ある意味、もっとも充実していた日々だったかもしれません。

    そんな私の目に、先日、気になる記事が飛び込んできました。

    あるnoterさんの書かれた、創作大賞に関する記事です。


    元記事の紹介と感想

    記事を要約させていただくと——

    • 「創作」という言葉は辞書的には「特に小説」や「つくりごと」を意味する。実体験を前提とするエッセイは「創作」には当たらない。

    • にもかかわらず「創作大賞2025」の応募作の過半数(53%)がエッセイ部門。SNS投稿レベルのものも多く、数だけが膨らんでいる。

    • 運営の審査負担が大きく、創作とはいえない「エッセイ部門」が大半を占める「創作大賞」のあり方について、疑義が呈される可能性がある。


    <感想>
    「創作」の辞書的定義に立ち戻り、そこから創作大賞のあり方を論じる流れがとても明晰でした。

    一方で、エッセイ愛読者としての誠実さも伝わります。

    決してエッセイを下に見ているわけではなく、むしろ愛しているからこそ「言葉の定義」と「現実の状況」とのズレに首をかしげているのだと感じます。

    エッセイへの深い愛情と、言葉の定義への鋭い視線。
    その両方が響きあうからこそ、この記事には説得力がありました。

    そして、私もまた、考えずにはいられませんでした。

    「エッセイは創作なのか、創作ではないのか」――

    私の立場は、
    「エッセイは創作。
     百歩ゆずって創作じゃないとしても、
     創作だということにしてみせる(前向き)」
    です。

    「創作大賞にエッセイ部門は必要なのか?」の答えは、
    当然、「YES」。
    「Absolutely YES!」です。

    その理由を、3つの観点からご一緒に見ていきましょう。


    ①辞書マニアは語る

    何を隠そう、私は、生粋の「辞書マニア」です(笑)。

    新明解国語辞典(三省堂)を40年来愛読し、
    電子辞書(SONYデータディスクマン)第一世代であり、
    隙あらば身近な物事を題材に「◯◯広辞苑」を作り始める——

    そんな私なので、言葉については、人一倍こだわりたいと思っています。

    さて、元記事には、「創作」という言葉について、コトバンクで調べた結果が出てきます。

    「Oxford Languages」の定義として、

    1.最初に作り出すこと。
      「——料理」
    2.純文芸などの作品を作ること。
      また、その作品。特に小説。
      「——意欲」

    「デジタル大辞泉」の定義として、

    1.新しいものをつくり出すこと。
      「新式の工具を——する」
    2.文学・絵画などの芸術を独創的につくり出すこと。また、その作品。
      「物語を——する」「——舞踊」
    3.つくりごと。うそ。
      「そんな言い訳は彼の——だ」

    これらについて、元記事では次のように書かれています。

    「特に小説」「つくりごと」ともあります。

    エッセイは自分の実体験に基づくという大前提があるのですから、エッセイを「創作である」ということは、辞書の定義からは外れるのではないかと思います。

    この部分を読んで、ふと考えました。
    辞書に載っている「言葉の意味」をどう扱えばいいのか、と。

    たとえば、「手」という言葉をコトバンク(デジタル大辞泉)で調べてみると、16個もの意味が並んでいます。

    一応、冒頭部分のスクリーンショットを貼っておきます。
    (字が小さすぎて読めませんよね?……読まなくて大丈夫です)

    画像

    主だったところをピックアップすると、

    「手」の意味には、

    ・身体の「手」
    ・技術・能力(手腕、手並み)
    ・手段・方法(手を打つ、手を尽くす)
    ・人員・労働力(人手、手が足りない)

    などがあります、が。

    「身体の手」と「手段」と「人手」……

    ぜんぶ同時に満たす「手」なんてありえないですよね。

    つまり、辞書に載っている意味は、
    文脈や状況にあわせて「1つだけ」選べばいいということ。

    同じように「創作」だって、意味のひとつに「特に小説」や「つくりごと」があるからといって、必ずしもそれに縛られる必要はないと思います。

    むしろ「新しいものをつくり出すこと」という定義のほうが、エッセイにはしっくりくる気がします。

    日常の断片を切り取り、言葉で編み直し、初めて形を与える行為そのものが「エッセイ」だから。

    つまり、創作大賞に「エッセイ部門」があるのは、辞書的にも不自然ではないのではないか、というのが私の考えです。

    そもそも、1つの言葉に複数の意味があるから、辞書に複数の意味を載せているのであって、これって、いわば「場合分け」ですよね。

    辞書さんサイドは、
    「言葉にはいろいろ意味があるから、その時々でふさわしい意味を選んでね」と言っているわけです。

    辞書の定義は、駅のホームのようなもの。

    そこにはいくつもの電車が並んでいますが、同時に全部に乗ることはできません。
    自分の求めている行き先にあわせて、どの電車に乗るかを選ぶ必要があります。

    私は「エッセイ=つくりごと」という電車には乗りません。
    乗りたいのは「エッセイ=新しいものをつくり出す」という電車。

    その定義に沿って書いた文章なら、「創作大賞」という駅に着くことも、きっと可能だと思うのです。


    「自分が使いたい意味を1つだけ選ぶ」——

    ここで「辞書マニア」である私は、さらに考えを巡らせます。

    1冊の辞書の中から選ぶのではなく、
    いろんな辞書から「創作」の意味を拾ってきて、
    その中から自分の好きな意味を取り出してもいい
    のではないかと。

    そこで、私は、日本を代表する次の辞書で、
    「創作」の意味を調べてみました。

    ①『日本国語大辞典(第二版)』(小学館/2001年)
    ②『広辞苑(第七版)』(岩波書店/2018年)
    ③『大辞林(第四版)』(三省堂/2019年)
    ④『新明解国語辞典(第八版)』(三省堂/2020年)

    後光がさすような、ソウソウたるラインナップです。
    字面を見るだけでゾクゾク・ワクワクしますね。
    (病院へGo!)

    1つ1つ丁寧に調べたのですが……
    結論をいうと、「創作」の意味に、際立った違いは見つかりませんでした。

    どの辞書にも、
    「新しいものをつくり出すこと」
    「作品をつくること」
    という意味が出てくるんですね。

    ただ、そうなると、今度は「作品」という言葉が気になってきました。

    そこで、同じように「作品」の意味も調べてみると……

    ①から③の辞書については、だいたい同じ。

    ・製作物。主に、芸術活動によって作られたもの。(②)

    ところが、1つだけニュアンスが異なる辞書がありました。

    ・感情や心境の表出、思想や主張の表明など、
     何らかの意図や目的があって制作したもの。

     (狭義では、文芸・美術・工芸など芸術上の制作物を指す)(④)

    ④『新明解国語辞典(第八版)』だけが、
    芸術的な作品の方を「狭義」としているのです。

    メインの意味は、
    「感情や心境の表出、思想や主張の表明など、何らかの意図や目的があって制作したもの。」——

    これは、日常生活で「作品」と聞いて、
    普通に想像される意味に、極めて近いのではないでしょうか。

    さっすが新解さん。
    庶民の気持ちに寄り添ってくれますね!

    この定義なら、エッセイも、芸術かどうかは気にせず、
    胸を張って「作品」といってよさそうです。


    さて、ここで、私が、個人的にもっとも頼りにしているご意見番、
    約40年来の相棒、大トリ、真打ち。
    ⑤『新明解国語辞典(第三版)』(三省堂/1981年)
    にご登場いただきます!

    盛大な拍手でお迎えください!!

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    ——字が小さすぎて読めない?

    ご安心ください。
    読めないのは、字が小さすぎるせいではありません(笑)。

    さて、新解さん第三版による「作品」の定義は次のとおり。

    「作品」
     心をこめて制作したもの。
     (狭義では、文芸・美術など芸術上の制作物を指す)

    ——「心をこめて」!

    およそ辞書とは思えない、超・主観的なワードチョイス!!

    やっぱり、新解さんは、昔の方が断然、人間味が豊かですね……

    「新解さん第三版」世代の私としては——

    創作が創作であるためのポイント、
    つまり、「エッセイを創作にする」ポイントとして、
    「心をこめていること」を挙げたいと思います。


    📍エッセイを創作にするポイント
    <その1>
    「心をこめていること」

    ……心のこめ方は人それぞれ。


    ②エフェクトで語る

    「心をこめる」という精神論が出てきたことで、のけぞっている方もいらっしゃるかもしれません。

    この章では、私が心をこめてエッセイを書く時に活用している「創作手法」についてお話します。

    「創作手法」といっても、そんな大仰なものではありません。

    なにげないエッセイを「創作」にするために、作品にかける必殺の「エフェクト」とでもいいましょうか……
    (よもやよもや!さらに大仰な話になってきたでやんす!)

    実例をまじえてご紹介しますね。


    (1)アバター

    自分の立場やキャラクターを「役」として設定するエフェクト。
    ただの体験談も「キャラ付け」すると物語になる。


    ①多趣味ライターは百趣味の夢を追い、趣味ポリスに追われる~趣味の数え方

    語り手は百趣味を目指す「妄想系多趣味ライター」。趣味を数えながら、脳内の「趣味ポリス」と戦ううちに、趣味の本質に開眼する。


    ②近眼で老眼で緑内障の司書がSVGs:持続可能な視力(未来を視る力)目標を提言します

    目に爆弾を抱える司書が「視力(Vision)を守ることは人生のビジョン(Vision)を守ること」というスローガンを掲げ、SVGsを提言する。


    (2)AR(拡張現実)

    現実の風景や事柄に「妄想レイヤー」を重ねるエフェクト。
    日常の出来事に、ほんの少し妄想を足すだけで物語が生まれる。


    ①あのとき助けていただいたゴーヤです~水耕栽培にはドラマがある【家庭菜園レポート】

    間引かれたはずのゴーヤが、ある日「恩返し」に来る心温まる物語。


    ②うちの庭のカマキリがかわいいグラビアアイドルになるまで

    毎日撮影していた庭のカマキリが、グラビアアイドルに見えてくる……?


    (3)VR(仮想現実)

    現実を「架空の何か」に置き換えるエフェクト。
    パロディやもしもの世界に転送すれば、現実がたちまち異世界に。


    ①「飽き性」が「飽き柱(ばしら)」に見えたとき、私の妄想力が全集中し始めた

    飽き性、凝り性、心配性が、「鬼滅の刃」の「柱」だったら……。ただの性格談義が、パロディ世界での冒険に変わる。


    ②マルポテ・バースを、生きていく――今、ここにある「無限の可能性の宇宙」

    マルチバース(別の宇宙)ではなく、「ひとつの人生の中で、無数の自分が共存する宇宙」を生きてみる。


    <結局、「エフェクト」とは?>

    さて、この章では、私の創作手法について、私の過去記事を交えて紹介してきましたが、「エフェクト」とはどういう概念なのか、伝わりましたでしょうか?

    結局、何なのか、といえば……

    自分自身が「創作を楽しむための工夫」です。

    私は、日々、これらのエフェクトを、ド派手に、
    あるいはひっそりと繰り出しながら、楽しんでエッセイを書いています――

    とは言ったものの……

    実は、この章で紹介した「エフェクト」の説明はすべて「後付け」です。

    1週間ほど前からこのエッセイを書いていて、自分の「創作手法」を言語化しようと唸っている中で生まれました。

    元々、エッセイを書く際に、見立てやパロディ、擬人化などを多用していましたが、それにピッタリ合う、「アバター」・「AR」・「VR」という名称を思いついたときは、正直、ガッツポーズが出ました(笑)。

    ……楽しんでますよね。

    自分が一番楽しむ。
    私のモットーです。

    これからは、この3種類の「エフェクト」を意識的に使うことで、
    エッセイを書くのが、もっと楽しくなりそうです。


    ――先ほどから楽しい、楽しいと連呼していますが、書いているエッセイの内容は人それぞれです。

    「楽しい」という表現に違和感がある方もいらっしゃるかもしれません。

    それなら、「心地よい」ではどうでしょうか。

    本来、創作は「心地よい」ものです。

    楽しいものは、より楽しく。
    嬉しいことは、より嬉しく。

    怒ることで、ストレスを発散したり、
    泣くことで、マイナス感情をデトックスすることもできる。

    創作を楽しみ、あるいは、心地よいと感じ、
    その感情を、エッセイを読んでいる誰かとも共有できたら……。

    「創作の喜び、ここに極まれり」と言えるのではないでしょうか。


    📍エッセイを創作にするポイント
    <その2>
    「心地よいと感じること」

    誰が?
    自分が。読んだ誰かが。


    ③AIには語らせない(笑)

    エッセイは「創作」か。

    この問いに正面から向き合うとき、無視できないのがAIの存在です。

    AIは、整った文章を、いくらでも生み出せます。

    今でも十分猛威を振るっていますが、ここでは、少し未来の社会を想像してみましょう。

    AIがさらに進化し、ありとあらゆる文章を秒速で生み出すようになった世界。
    ここでAIが作った文章を読んでいるのは――

    やはりAIです。

    人間同士の共感ではなく、AIの評価アルゴリズムに最適化された文章が量産される社会においては、作者も読者も、AI。

    AIが書いた文章を、AIが読んで、評価し、また学習していく。

    ……いやはや、なんとも効率的な世界です。

    でもそんなサイクルに、いったい何の面白さがあるでしょうか。

    それはまるで、AI同士で指している将棋や囲碁を、無言で見せられているようなもの。
    精密で完璧だけど、心が動かない。

    人間同士の試合が見たいと思いませんか?
    自分が書いた文章を、AIではなく、人間の誰かに届けたい、と。

    考えてみてください。

    人間よりも速く走れる車ができても、オリンピックの陸上競技はなくなりませんでした。
    飛行機で簡単に空を飛べるようになっても、鳥人間コンテストは毎年のように開催されています。

    創作も同じです。

    AIがどんなに便利になっても、
    「自分で書きたい」という気持ちは消えないはず。

    では、なぜ、AIに任せれば一瞬で済む時代に、
    人はわざわざ、自分の手で文章を書くのでしょうか。

    答えはシンプルです。

    抑えきれない「創作欲」のため。

    あえて時間をかけて自分で生み出す――。

    文章が乱れても、それは、書いた人の個性。
    冗長な部分があっても、それは、書いた人の思考の過程。

    そこにこそ、人間だけの「創作の魂」が宿るのだと思います。

    抑えられない創作欲を満たすのが創作なのだとしたら、
    「創作欲が満たされるエッセイは創作」といえるでしょう。

    だって「創作欲が満たされてる」んだから。

    ……なんか「ループ」してる気がしないでもないですが(笑)。

    「創作欲が満たされるエッセイ」を、AIが書くことはできません。
    自分の創作欲は、自分が創作することで満たすしかないのです。


    📍エッセイを創作にするポイント
    <その3>
    「創作欲が満たされること」

    大事なのは、
    外からの評価ではなく、内側からの充足。


    <まとめ>

    さて、エッセイを創作にする3つのポイントが出揃いました。

    1.心をこめていること
    2.心地よいと感じること
    3.創作欲が満たされること

    これらの要素が満たされるなら、小説に限らず、
    エッセイだって、「創作」と呼んでいいのではないでしょうか。

    あなたは、どう考えますか?

    ここまで読んでくれたあなたに、ラストは選択式でお届けします。
    ……まさかの「マルチ・エンディング」です(笑)。

    A.創作はエッセイなのか、自信が持てない方
     → 「A.お持ち帰りエンド」へ 

    B.創作はエッセイだ、と胸を張りたい方
     → 「B.トゥルーエンド」へ

    C.自分には関係ないじゃん、と思う方
     → 「C.ところがあなたに関係してるエンド」へ


    A.お持ち帰りエンド

    ここまで読んできて、どう感じたでしょうか。

    「創作ではない」
    「いや、創作でしょ」

    気持ちが揺れ動いているかもしれませんね。

    どちらでも構いません。

    あなたがこの問いを少しでも持ち帰り、頭の片隅で反芻してくれるなら、それこそが、私の創作の「領域展開」なのです。

    「エッセイは創作か否か」、もう一度自分の考えを確認するために戻って来てくださることも大歓迎です。

    「スキ」を押して、栞にすることをおすすめします(笑)。


    B.トゥルーエンド

    私は、やはり「エッセイは創作である」と胸を張って言いたいです。

    なぜなら、事実をどう切り取り、どう演じ、どう膨らませるか――

    そこには、必ず、創作の工夫が凝らされているからです。

    キャラクターを立てることも。
    日常に妄想を一滴混ぜることも。
    言葉で異世界を召喚することも。

    すべて「ゼロから一を生む」ためのチャレンジです。

    今回の記事、もし「いいな」と感じてもらえたなら……
    「スキ」をいただけると望外の喜びです(笑)。

    これからも、ご一緒に、エッセイを「創作」していきましょう!


    C.ところがあなたに関係してるエンド

    ……と、ここまで長々と書いてきましたが、
    もしかすると、これは全部「つくりごと」かもしれません。

    そう、辞書にあった定義そのままの「創作=つくりごと」。

    この「きのころ」という人物も、本当はいないのかも。
    あなたが今読んでいるこのnoteだって、はたして実在しているのでしょうか……?

    いやいや、もしかすると――

    このnoteを読んでいる「あなた」さえ、
    私が創り出した登場人物なのかもしれませんよ……?

    でもまあ、せっかく生まれてきてもらったのですから、
    これからも私のnoteを読んでくれる「役」でお願いします。

    「スキ」をいただけると、作者冥利に尽きます(笑)。
    よろしくお願いします。


    おわりに

    実は――
    この記事そのものを、
    「アバター」 → 「AR」 → 「VR」の
    エフェクト三段重ねで書いてみました。

    「①辞書マニアは語る」の章は、
     辞書好きな自分をキャラ付けで「アバター化」し、

    「②エフェクトで語る」の章は、
     既存記事に後付け設定の「AR(レイヤー)」を重ね、

    「③AIには語らせない(笑)」の章は、
     「VR」的に現実を揺さぶる仕掛けをご用意しました。

    つまり、この記事自体が、
    「エッセイを創作にする」という実例になっていたのです。
    (な、なんだってー!?)

    「なっていたらいいなぁ」というレベルですが……


    結論。
    エッセイは創作です。(私の中では、間違いなく)

    これからも、『創作大賞』にエッセイ部門が継続してくれることを願っています。
    (もちろん、運営の負担を減らす工夫は大前提で!)

    そのためにも、私自身、さらにエッセイを磨いていきたいと思います。

    エッセイの、
    創作の未来のために!


    <後記>
    さて、今回の記事で、
    「120日連続投稿」を達成しました!

    ここまでお読みいただきまして、
    ありがとうございました!

    またお会いできると嬉しいです。

    これからも、エッセイを楽しんで書いていきます。
    ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。


    たくさんのnoteの中から、私の記事を見つけて読んでいただき、
    ありがとうございました。
    「なんかいいかも」と感じていただけたら、
    スキやフォローで合図を送ってもらえると、とても励みになります。
    どうぞ、よろしくお願いします。

     
    関西在住。1級FP、独立系司書。50代でFIREを達成し、 何があっても「この先、生きのころー!」をテーマに 自称「マルチ・ポテンシャライター」(多趣味ライター 的な造語)として活動。今まで読んだ5000冊以上の本 から生まれたアイデアをもとに、童心で楽しむ日常 や創作を発信中。

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