
試着室にて
ファッションセンスも無いし、興味も無いので、普段服を買いに行くことはほとんどない。
考えてみれば今の時代、服に限らず買い物に出かけること自体がほとんど無い気がしてきた。そういえば全部ネット通販だった。
一日の大部分を仕事場に籠もって絵を描いているだけのイラストレーターなので、宅配便の人以外に誰と会うわけでもないし、毎日同じ服でも全然気にならない。家から仕事場までは、二十五分程度かけて住宅街を歩いて通っている。健康のためという意味も兼ねてウォーキング的に少し速足で歩いているので、毎日ジャージを着ている。楽なので仕事をするときもジャージだ。
ジャージだけにはこだわりがあるかというと、そうでもない。何本か持っているものをローテションしているにすぎない。
唯一、アロハシャツだけは、ほんの少し興味があって、何枚か持っている。ただし、ビンテージではなく、気に入ったブランドのものがあるので、それをたまにオンラインショップで購入している。
そのブランドは、トリ・リチャードという。以前仕事でハワイに行ったときに、ホテルの中のお店で見つけて、それ以来気に入って夏にはよく着ている。外国のブランドなので日本人にとってはサイズが大きめにできており、僕はいつもSサイズを買っている。
このように一度気に入ったものが見つかったら、同じサイズであればまず間違いがないということで、すぐオンライン通販に依存してしまう。
靴についても同じである。仕事場までウォーキングしているので、革靴は合わない。いろいろ試した結果、現在はオニヅカタイガーのセラーノというシリーズばかり履いている。
このセラーノという靴、とても履き心地が良くて、仕事場へ通うのに毎日履いているのだが、なぜか中からワタボコリが出てくるのだ。なんか足の裏がモゾモゾするぞと思ったらインソールの上にワタボコリが固まっている。それをペリっと剥がし、なんだこれ、といって捨てる。何日か経つとまた足の裏がモゾモゾする。またしてもワタボコリだ。剥がして捨てて様子を見る。歩けば歩くほどなぜかワタボコリの野郎が生まれてくる。
たぶん、無い知恵を絞って考えてみたのだが、きっと、自信はないが、歩いているうちに摩擦で靴下の成分がインソールのほうへ移動するのではないだろうか。理論的にはこれを集めれば靴下が作れるはずなのである。柴犬の抜けた毛を集めておくと、もう一匹柴犬を作ることができるのに似ている。
このように、気に入ったものが決まったら、ひたすらそれだけを買っていれば満足するタイプの人間である。あまり他を試してみようという気は起きない。自分には他にどんなものが似合うのだろうかなどということを考えるのが面倒なのだろう。そういうところに能力を使わず、もっと別のところに使いたいと考えているのかもしれない。
ただし、カップラーメンは別である。カップラーメンは、気に入った銘柄があったとしてもそればかりを食べるわけではなく、近所のコンビニで新しい銘柄を見つけるたびに買っている。
まあ、カップラーメンだけの話ではない。食べ物や飲み物に関しては、新しいものを見つける度に挑戦したくなるほうである。
といいつつも、行きつけのラーメン屋や居酒屋ではいつも同じものを頼んでしまうのはよくあることだ。
雨の日ももちろん歩いて通っている。傘をさしていても背中に背負っているリュックサックが濡れて、中のスケッチブックがフニャフニャになってしまう。今まで二十冊以上のスケッチブックが溜まっているが、全てフニャフニャだ。
これを解決すべく、先日ついに重い腰を上げた。ターポリン製で縫い目の無い、完全防水のリュックを購入したのだ。これでもう中身が濡れる心配はない。ただし、一つ困ったことがあって、それは完全防水ゆえに、雨が染み込まずにリュックを伝って腰まで届くので、お尻のあたりがびしょ濡れになってしまうのだ。
雨の日に困るのはリュックだけではない。靴もだ。こんな日はセラーノで行くわけにはいかない。長靴だ。長靴はまだ決まった銘柄が無い。まだそれを見つける旅の途中であるといってもよい。とりあえずアマゾンで軽いと評判の長靴を買ってみた。
水が侵入してこないのはよいのだが、どうも大きめにできているようで、自分の足のサイズのものを買ったのだが少し緩い。そのせいかわからないが、歩く度に靴下が少しずつ脱げていくのだ。おそ松さんでいうところの、イヤミのシェーの靴下状態になるのである。
どうせ少しずつ脱げるなら、最初から脱いでしまえということで、この長靴は裸足で履くようになった。
さて、そんな人間が、ある日街へズボンを買いに行ったときのことだ。どの店とは言わないが、やはりいつも買っている定番のズボンがある。サイズもわかっていれば同じものを買うだけなのだが、このときはせっかくだからと違うズボンも試着してみることにした。
いくつかの商品を抱えて試着室に入る。靴を脱いで試着室の床に上がると、何か黒くて薄っぺらい欠片のようなものがいくつか落ちている。それは乾燥していてちょうど海苔のような感じだ。なんだこれと思いつつ、ズボンを試着し、しっくり来るものがなかったので、別のズボンを試すべく売り場へ戻った。
再びズボンを何本か抱えて試着しに来た。前回入った試着室は使用中だったので、別のところへ入る。床へ上がると、また同じような黒い欠片が落ちている。謎だった。
今回の試着では履き心地もよくシルエットも気に入ったズボンが見つかったので、つまりそれはいつも履いている同じズボンだったのだが、気を良くしてレジへ行き、帰途についた。
仕事場に着いて靴を脱ぐと、あの試着室で見た黒い欠片がここにも落ちているではないか。どういうことだ?
よく観察してみると、昆虫の脚のようなものもある。どうやらそれは、バラバラになったゴキブリの一部のようであった。つまり僕は、生きていたか死んでいたかはわからないが、ゴキブリを靴の中に入れたまま外出し、歩くことでそれをバラバラに解体しながら、ズボンを買って帰ってきたということだったのだ。つま先にゴキブリが躍動する感触はなかったのだが…。
そういえば友人の結婚式で教会へ行ったとき、スリッパにゴキブリが逃げ込んむのを目撃したことがある。靴の中に隠れることはよくあるのかもしれない。