
600の話。
唐突だが、みなさんは600という数字から何を連想するだろうか。この一週間、たかっちさんが主催する「600note祭り」のお題である「600」について朝も昼も夜もなく、絶えず考え続けていた。
日常を見渡す。買い物のレシートには600という文字はない。私の買っているタバコはいつの間にかひと箱600円を超えていた。なんなら700円も見えている。...これは純粋に畜生極まりない。
外を見る。昇る朝陽。徐々に短くなる夕陽のどこにも600という文字は浮かんでこない。私はありとあらゆるものを薄めたカルピスのように引き延ばす特技を持っているのだが、それでもこの600という数字は難敵だった。
困り果てた私は原点に立ち返ることにした。今でこそ調べものはAIに頼ることが多いが、その昔はWikipediaこそが王道だった。大学の定期試験やレポートではWikipediaから情報を取ってきたことが判明した場合、最悪単位を取り消される事態まで発生した。その当時、私の口癖は「ウィキ」だった。ことあるごとに「ウィキ」と言う。サルが「ウキー」なら私は「ウィキー」。人間の本質など古来からそう変わるものではない。
とはいえ、人前で軽々しく「ウィキ」と言うこともまた憚られた。これにはWikipediaを絶対にWikiと略してはならない一部の過激派組織が暴動を起こしたという、悲しみに血塗られた歴史的な背景がある。
確かに気持ちは分からないでもない。もちろんこれもWikipediaからの引用だが、Wikiとは元々不特定多数のユーザーが共同してウェブブラウザから直接コンテンツを編集するシステム、またはそれを採用したウェブサイトのことを指す。したがってWikipediaをWikiと呼ぶのは東大を大学と呼ぶくらいの暴論だというわけだ。
だが、世の中には陰謀論というものがある。東大には正式な校歌は存在しないが、「東京大学の歌」として「ただ一つ」という曲がある。ただ一つとは言わずもがなuniverseのことだ。そして大学とは英語でuniversityと呼ぶ。ここまで言えばもうお分かりだろう。
やはり東大は自身を「大学そのもの」であると呼称しているということで、日本各地に点在するワンオブ東大出身の私としては、そこに甚だ疑問を持っている。
ところで、いま私は再度困っている。なんとか600に近づく糸口を見つけ出そうとしているのだが、ここまで約1000文字を重ねて一向にその片鱗すら見えてこない。
やはり、私が最後に頼れるのはWikipediaしかない。なので調べる。

当たり前だが、当たり前のことしか書いていない。
だが私は気づいた。それでいいのだと。意味のないものに、無理に意味を見出すことに何の意味があるのだろうか。数十分前まで、意味がなければ作ればいいと考えていた自分を自分で殴りたい。それじゃどこぞの失礼マナークリエイターとやっていることが変わらない。
大体いまの世の中うるさすぎる。やれ口を開けば「エビデンスは?」とか、「それは何ベースの話なの?」とか、「それってスコープに入ってないよね?」とか。そんなんだから、「それってあなたの感想ですよね」と言われればすぐに顔を真っ赤にしてしまう。
そして、必死に探す。自分の言葉の根拠を何かに求め、徹底的に何かの理論で武装する。
でもね。
産まれたばかりの赤ん坊を見てみなさいよ!
生きる意味なんて求めなくても、何かを求めて必死に手を伸ばしているでしょうが!
いけない。だんだんこれでいいのか不安になってきた。
Wikipediaで調べたい。なんならAIにも聞いてみたい。
かつて、これほどまでに意味を欲したことが果たして私の人生にあっただろうか。
再びWikipediaを開く。私は検索窓にマウスポインタを移動させ、「600」と数字を打ち込んだ。
少し乱暴にエンターキーを叩く。数秒の間が過ぎる。
あゝ私はやっと意味を見つけた。このエッセイは1,860文字。そして、Wikipediaによれば600の約数の総和は1,860。奇跡的な偶然。ただ、狙ったにしてはあまりにもつまらない。でも、得てして真実というのはそういうものだろう。
まあ正直に告白するとこのエッセイは1,860文字でもなんでもない。だが、藁をも掴むようにして見つけたこの意味だけは、今夜ぜったい手放さない。
#なんのはなしですか
#なにがいいたいのですか
#だからどうしたのですか
#ペラペラエッセイ
#600note祭り