
世界一周旅行の話。
家族旅行に行くためのバスに乗った。これから5時間ほど揺られる予定だ。このバスにはトイレが無く、途中2回ほどサービスエリアで休憩が入ることになっている。連休が終わり、人も疎らかと思いきや意外なことに満席で、いまこの車内は満員電車のようにギュチギュチの状態である。
夏が終わったとはいえ皆まだ半袖。バスの振動に合わせ、知らない人の冷たい二の腕が私の二の腕に触れるたび、全身の毛穴がゾワッとする。それはきっと隣の人も同じだろう。触れては離れ、そして近づき。ゆく肌の触れりは耐えずして、しかももとの肌にあらず。生ぬるい体温を受け取った二の腕は、そこだけが私のものでは無くなってしまったかのようだ。
ところで私は密室が苦手だ。物理的には人と人との距離の近さもあるが、独特の閉塞感に胸が圧迫されそうになる。特に窓側の座席が苦手だが、今回は残念ながら4列シートで2分の1の確率を引き当ててしまった。
もしかしたらこの文章を読んでる方は窓側の方が遠くを見渡せていいと思うかもしれない。しかし、現実は全く違う。通り過ぎる景色には手を触れることはできず、眼前には一群のシートがどこまでも林立している。もしこれが通路側だったなら、目の前に開けた光景と前方の景観で気を紛らわせることができるが、ここではそうもいかない。
ここまで書いて、ちょうど出発してから20分くらい。なんとなく気分の悪さが文章に滲んでいる気がするがせっかくなのでこのまま続ける。
私の過去最大の密室体験はチリのサンチャゴから成田への帰路で起きた。数週間に及ぶ長い出張の終わり。その日、私と私の上司は疲労からくるテンションでいつになく浮かれていた。だいぶ前に空港に着いた我々は土産物の物色やラウンジでのシャワーも済ませ、ぶっちゃけやることがなくなっていた。
ダラス行きのフライトまではまだ1時間くらいある。あとは飛行機に乗って帰るだけ。私たちは搭乗ゲートの前にあるダイナーでピルスナーを煽っていた。もちろん私はチラチラと電光掲示板と時計を見ていたが、まだ時間もあるしと調子に乗って結構飲んだ。ふと、ゲートに目を移す。なにやら様子がおかしい。搭乗時刻まではまだ少し時間があるはずなのに、グラウンドスタッフが突然ゲートを閉め始めた。
一応時計を確認するが、どうも話が通じない。聞けば機材の都合だかなんだかで少しだけ搭乗時間が早まっていたらしい。そんなこと聞いたこともなかったので私たちは当然猛抗議した。
しかし、スタッフは私たちが握りしめているチケットをひったくり、「搭乗時間の30分前には集合しろ」と書かれた部分をトントンと人差し指の爪で叩いた。そして、ドスの効いた声で「お前らのことは何度も呼んだけど来なかった。つーか、お前らすぐそこにいたのに何してたわけ?そもそもファイナルコールは原則しないのにそこまでしてやっても来なかったお前らが悪い」という内容をバカ丁寧な英語で説明された。
ぐうの音も出なかった。
スーパーで補導される万引き少年のように、スタッフに連れられて私たちは空港の中をぐるぐると引き摺り回された。そしてスタッフ専用ゲートの奥、事務所棟の一画で「そこで立って待っておきなさい」と言われ、しばらくするとポイッと私たちのスーツケースを放り出された。
ポカーンと口を開け、上司と二人で顔を見合わせる。
「どうする...?」
「いや、どうしましょうね...」
そんなやり取りを繰り返す。だが、私たちにはもはや自力でこの状況を脱する手立ては何も残されていなかった。
とりあえず会社に連絡し、かくかくしかじか説明した。お沙汰は帰ってからということで、ひとまず旅行会社に電話する。担当者はこういうケースに慣れているのか、電話の向こうでカタカタとキーボードを打ちながら、午前2時半のブラジル経由、ドバイ行きの飛行機があるからそれを取れと言ってきた。そして、ドバイで数時間待ってから成田行きに乗るようにと。一応恐る恐る総時間を聞くと、給油とトランジットを合わせて30時間近くだった。
上司と目を合わせて卒倒しそうになった。そもそも私たちは成田からアメリカのダラスへ。そこからチリのサンチャゴ、そしてその最果てプエルトバラスに来ていた。つまり、これから乗る飛行機はそのルートの反対側、簡単にいえば世界一周をするということになる。

(縮尺はご愛嬌)
そりゃ時間もかかる。だが、仕方ない。ドバイ行きの搭乗ゲートを探し、そこで数時間椅子に座って待っていた。さっきまでの浮かれた気持ちはすっかり吹っ飛んで、二人のあいだを無言だけが満たしていた。
今度こそはとチケット番号、そしてもう一度搭乗ゲートを確認する。初めて乗ったエミレーツ。ドアからは眩いばかりのファーストクラスシートやビジネスクラスシートが見える。私たちは身を捩りながら何とか自分たちに用意された「ちいさくてかわいいシート」に腰を下ろす。しばらく待つと両サイドに爆裂グラマラスわがままボディを持った2人が詰めてきた。肘掛けからはみ出すお肉。私は自分の太ももよりも肘を内側に押し込んで数時間を耐え切った。やっとブラジルに到着する。飛行機からランディングホイールが出る音がする。ぐうっという降下と共に機体がガタッガタッと地面に接着し、私たちの体も跳ねる。
その瞬間、前の席の人が盛大にゲロをぶちまけた。
充満する臭い。そして始まるもらいゲロ祭り。見れば私の両隣の人も背中を丸め、手で口元を押さえている。空気がどんどん薄くなっていく。飛行機が止まり、バタバタとキャビンアテンダントの人たちが走ってくる。新鮮な酸素が欲しい。早くここから出して欲しい。
しかし、その願いは叶わなかった。ブラジルへ着陸した目的は給油のみ。つまり、乗客である我々は外に出ることが許されない。周りの乗客の顔がどんどん青くなっていく。
そこから3時間ほど、私は機内の色々な場所をうろうろした。しかし、どこにいてもあのゲロの臭いが自分の後ろをついてくる。それはまるで影のように、振り切ろうとすればするほど振り切れない。
座席に戻ると、ゲロを吐いた人はすでにいなかった。もしかしたら、体調不良ということでブラジルで降ろされたのかもしれない。再び席に腰を下ろし、シートベルトを閉めた。画面のモニターは自分がいまアフリカ大陸の上にいることを示している。
まだ明け方の薄暗い空を見上げ、サバンナの動物たちもまた、人間の愚かさを笑っていたのだろうか。
そしてようやくドバイに着いた。結局その後一睡もできず、私はやたら綺麗なトイレに駆け込んで、大急ぎで顔を洗った。鏡に映った私は顔がパンパンにむくみ、目の下にはげっそりするほど濃いクマができていた。
トイレから出ると、そこには上司が待っていた。シャツが何かで濡れている。よく見ると黄ばんでいる。上司は私のすぐ後ろに座っていたはずだった。私は何も言えず、にへらにへらと笑った。上司もただ、力なく笑っていた。
会社へのお詫びにと無駄に高いチョコレートを買って、最後の飛行機に乗り込んだ。
結局成田に着いたのは早朝だった。もういまが何月何日なのかも分からない。時差で頭はめちゃくちゃだった。しかし、帰国早々電源を入れたスマホにひっきりなしに入るメールから、今日が休日でないことだけは明らかだった。
こうして私たちの世界一周旅行は幕を閉じた。
上司と私は帰国早々2人で電車に飛び乗って、大急ぎで出社した。本当は空港でシャワーでも浴びたかったがそういうわけにもいかない。オフィスのエントランスが跳ね返すステンレスの銀色がやたらと眩しい。会社に着くとみんながニヤニヤとしている。上司は部長に呼び出され、どこかの会議室へと消えていった。私は、カバンを開け、チリで買ったお土産のステッカーを誰かに見られないよう、そっとデスクの一番奥にしまい込んだ。
あれから数年。そのステッカーが貼られたスーツケースは、いまも私の真下、このバスのラゲージスペースで私と一緒にガタガタと揺られている。