
ホルムズ海峡の話。
自慢じゃないが、我が家は狭い。どのくらい狭いかというとダイニングテーブルと冷蔵庫の間が80㎝程度しかない。
簡単な間取りを描くとこんな感じだ。

こういうポンチ絵って、私はやっぱりpowerpointが好きだ。今だとAIで簡単に綺麗な画像が作れるのだが、なんというか味がある。ちなみにこだわりポイントとしては「パントリー」「冷蔵庫」「キャビネット」、そして丸で作った椅子の色を少しだけ濃いグレーにしたことだ。作りながら、思わず夢中になってしまった。
私は凝り性なので微妙に長さが合っていなかったり、左右差があるとイライラしてしまう。そういうのを見つけては潰してを繰り返していたらあっという間に30分ほど経ってしまった。なお、苦心して作ったこの画像だが、どうしても気に入らないポイントが一箇所だけある。と言っても簡単には見つからないだろう。ヒントは「拡大」だ。見事当てられた方にはその暇人ぶりに心から敬意を表したい。
やっと訪れたひとり時間。仕事から離れてこんなことをしていると少しほっとする自分がいる。何より作っていて楽しい。私は絵を描くのは苦手なのだが、こういうちまちました作業は昔から得意で、そのおかげで仕事のうえでも随分助けられたと思っている。
のっけから脱線した。理由は明白で、うんざりしているからだ。
見ていただければ分かるが、この80㎝の海域は交通の要衝となっている。通常時であればそこまで困ることは無いのだが、食事時など最悪だ。妻がキッチンで何かを作るとする。当然食器が必要になる。我が家のキッチンはネズミの額ほどしかないため、大量の食器を置いておくことはできない。そうするとどうなるか?いちいちこの海域を何往復もして、料理を作り上げなければならない。
まあ、それでも妻と私の二人だけならよかったのかもしれない。だが、現状はこちらのザマである。

ムスメは私の側か妻の側か、そのいずれかでご飯を食べることになる。しかし、そのいずれにしてもこの海域における圧倒的支配者だ。我々が食事の準備をするときに、彼女は冷蔵庫に手を伸ばし幼稚園からの回覧物などを貼ってあるマグネットを引っぺがす。当然回覧物は床に落とされることになる。
また、よく牛乳もぶちまける。その瞬間、牛乳は食べ物から重油へと変貌を遂げる。もはや貿易どころではない。まずは海域汚染を一刻も早く取り除かなければならない。そうして食事の時間はどんどん遅くなる。大体そういうときに限って、妻は魚焼き用グリルでグラタンなどを作っているものだから、気づいたときには部屋中に充満する焦げ臭さと共に、真っ黒な炭の塊が生成されている。重油の次は石炭。いい加減にしてほしい。
そして何より最悪なのが、小さなおもちゃだ。
理由は分からないが、ムスメは食事時になると必ず何かしらのおもちゃを一つだけ持ってくる。日によってぬいぐるみだったり、ファミレスでもらった景品だったりするのだが、中でも凶悪なのがスーパーボールだ。私たちが身をよじりながら食事の準備をしているときに、ムスメは子ども椅子のテーブルでコロコロとスーパーボールを転がしている。当然、それはテーブルの上に留まるわけもなく、気づけば床に落ちている。だが、私たちは自分たちのことで精いっぱいでそんなものを気にかけている暇はない。結果、思い切り踏んづけて、転びそうになる。ムスメは「パパが〇〇ちゃんのスーパーボールけったーーー」と妻に言いつけている。私の足の小指の爪はその設置型機雷によって逆剥けになっているというのに。
と、いう状態なので私は普通に引っ越したい。できれば人と人がすれ違うことができるくらいの家がいい。少し想像してみる。その家のダイニングテーブルは広い。キッチンはアイランド型の最新式。そこで夕飯を食べる姿を想像する。
たぶんだが、楽しいと思う。今は一人用の皿を置けるスペースもないので仕方なく大皿で取り分けているが、その家ではきっと私と妻、そしてムスメの三人がそれぞれの場所でそれぞれの物を食べるのだろう。
テーブルの上にはお茶を入れたピッチャーや、箸が行き交うこともない。ムスメが少し大きくなる。
「食べないの?」
ムスメは返事もなく、自分の部屋へ行く。その後ろ姿を妻が追いかけ、私は大きなテーブルの端っこで、自分用に取り分けられた料理と、誰もいなくなった空間を見て、いったい何を思うのだろうか。
ムスメを寝かせた後、さっき妻と「今週がめちゃくちゃ長く感じる」と話していた。妻とムスメはインフルエンザによるダウンからの幼稚園。そして私は新しい仕事。妻も私もへとへとだ。
「やっぱさ、オレがいなかったってのもある?」
私がそう妻に聞いたら、彼女は「家に帰ってきて、誰もいないのって寂しいって思ったよ」と言い残し、席を立った。
テーブルの向こう。80cm幅の海峡を越え、私を横切る妻の髪からは、いつもより少しだけいい匂いがした気がした。
やっぱり、もう少しだけこの家に住んでいたい。
それがいつまでかは分からないけれど。