
"ファ" と "ヴ" のあいだ [ショートショート]
昼休み、隣の席の秋山さんが急に話しかけてきた。「ねえ、"vase"ってどう発音する?」
私は一瞬戸惑いながら、「ヴェイス、かな」と答えた。秋山さんは目を丸くして笑った。
「やっぱり! そう言うと思ったの。じゃあ、"face"は?」
「フェイス」
「ほらね! それがさ、同じ綴りのvとfでも違う音なんだよ」
彼女は、まるで秘密兵器でも出すように、ノートを一枚引き抜いた。
そこにはびっしりと発音記号が書き込まれていた。 /f/ と /v/ 、それに /θ/ や /ð/ 。
「最近、発音記号の勉強してるの。発音だけで通じるかゲームしてみない?」
そう言って彼女は "knife" の /k/ を真似て、空中で切るジェスチャーをした。
私は思わず笑ってしまった。「急になにそれ、奇襲だね」
彼女は得意げに頷いた。「こういうの、面白くない?」
私は軽く頷いたけれど、実のところ発音記号なんて中学以来、見た覚えがなかった。
正直、怖気づいていた。でも、秋山さんはそんな私の反応を気にせず、次の問題を出した。
「これは難しいよ。 "though" 」
私は口を開けかけて、また閉じた。喉の奥で濁った音が正しいのか、不安だった。
「……ゾウ?」
「お、近い近い! /ð/ の音が出てる!」
嬉しそうに拍手されて、少しだけ誇らしかった。
その日以来、私は昼休みに彼女と発音ゲームをするようになった。
発音記号なんて、ただの記号だと思っていたけれど、
それは音の地図で、言葉が生まれる瞬間を指し示す記号だった。
放課後、駅までの道を一緒に歩きながら、彼女はふと呟いた。
「最初は、英語に自信なさそうだったから、ちょっとでも楽しんでもらえたらって思って」
私は驚いて彼女を見る。「……奇襲、じゃなかったんだ」
「まあ、ちょっとだけね」
彼女は笑った。
言葉に対する苦手意識が、少しだけ軽くなっていた。
そして、次の日の昼休み、私は自分から初めての問題を出した。
「 "vivid" って、どう読むと思う?」