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Photo bytomori_gerbera

愛される花 愛されぬ花〜それぞれの私〜

    1.2元性が生み出す「分離感」

    みなさんは今、自分が誰かに「愛されている」と感じているだろうか。
    それとも、「愛されていない」と感じているだろうか。

    愛される対象は特定の個人には限らないかもしれない。職場、コミュニティー、推しのアーティスト、社会、あるいは世界そのもの・・・その対象は様々である。

    もし、その誰かに「愛されていない」と感じているならば、自分の中の愛されない(と思い込んでいる)部分を、対象から愛されるように変えなければならないと考えてしまうかもしれない。

    しかし、世の中には、そもそも、善⇔悪、男⇔女と同じように、老⇔若、優⇔劣、愛⇔憎、美⇔醜といった、対になる「2元的な概念」が存在している。

    しかし、この2元性は、どちらか一方の価値観に偏ることで、私たちの社会や心の中に「分離」を生み出してしまうことがある。

    2.ありのままに咲く花々と、多様な美の姿

    例えば「花」を思い浮かべてみてほしい。
    花は本来、どれも美しい。

    それぞれの美しさに違いはあるものの、それは優劣ではなく「美しさ表現の違い」に過ぎない。色とりどりの花々は、自らの特性をあるがままに精一杯表現し、私たちの目を楽しませてくれる。

    そしてまた、表現の違いを感じる側の、わたしたち人間の嗜好も一人ひとり違っている。

    赤い花を好む人もいれば、白い花に惹かれる人もいる。

    豪奢なユリが好きな人もいれば、野に咲く可憐なカスミソウを愛する人もいるだろう。(ちなみに私は、幼い頃を思い出す、春の河川敷いっぱいに咲き誇る、黄色い菜の花の姿が大好きである。)
    美しさの好みひとつをとっても、このように千差万別であり多様だ。

    好きな音楽やアーティストの好みもまた千差万別である。
    裏を返せば、それだけ多様な音楽のジャンル、個性豊かなアーティストが世界には溢れているということになる。

    そしてこの多様性こそが、決して変えることのできない自然界の在(あ)りよう、そのものなのである。自然界の一部である、私たち人間の千差万別の価値観もまた、一元化することのできない在りようである。

    3.内面の光と闇を受け容れるということ

    さらに言えば、私たち一人ひとりの内面にもまた同じように2元性は存在していることに気がつくのである。

    一人の人間の内面にも、正⇔邪、善⇔悪、美⇔醜、清⇔濁といった「光」と「闇」を同時に持ち合わせていることが、極めて自然な姿だといえる。私自身、もちろんそう感じている。光だけを持ち合わせている人が、果たしているだろうか。
    そう考えると、世界には「光と闇」、「陰と陽」が同じだけ存在してバランスを保っているといってもいいかもしれない。

    自分自身の内面にある「光」だけでなく、ときに目を背けたくなるような「闇」の部分を見つめ、その両面を丸ごと受け容れること。
    それが、ほんとうの意味で「自分を愛する」ということなのかもしれない。

    そうやって自分の内面の2元性を受容することで、結果として、自分を取り巻く外側の世界の2元性をも丸ごと受け容れることにつながっていくように思う。(とはいえ、快や不快の感覚は依然として感じるし、自分自身が考える美しさを精一杯表現してこうとすることに変わりはないのだが。)

    表現の違いはあっても、自分の内面と同じように、どっちもあるがままでいいんだ、という外側の感じ方に変わっていくのである。

    自分らしい生き方のヒントがここにあるような気がしている。

    4. 咲いて散る、すべての命へ

    「愛される花も 愛されぬ花も 咲いて散るひと春に変わりないのに♪」

    今日は、そんな大切なことにそっと気づかせてくれる、中島みゆきさんの名曲『愛される花 愛されぬ花』(1986年、三田寛子さんへの提供曲)をご紹介します。
    陳佳(チェン・ジア)さんの美しいピアノの調べとともに、どうぞお聴きください。


     
     

    komo33

     
     
    日々の暮らしの中でふと気づいたことや、これまでの経験から学んだことをマイペースに綴っています🖊 私のささやかな体験談やそこから生まれた思考が、読んでくださる方のヒントになったり、ホッと一息つける時間になれば嬉しいです☕ お時間のある時に覗いてみてください😊

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