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【十歩目】絶対的なものなどない。

    はい十歩目、本日は老子の第二章から。

    1.美があるから醜がある。


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    ❝天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人、處無爲之事、行不言之教。❞
    ➙天下の人が、純然たる美を求めることで醜が生じる。天下の人が、みな純然たる善を求めることで不善が生じる。ゆえに「有」と「無」はともに生じ、「難」と「易」はともに成立し、「長」と「短」、「高」と「下」は互いがあるから比較することができる。「音(音階)」と「声(テンポ)」があるから音楽が生まれ、「前」と「後」があることで順序が始まる。故に聖人と呼ばれる人は、無為をもって基準とし、不言の教えを行う。

    『老子道徳経』第二章

     今回は「美」と「醜」、「善」と「不善」、「有」と「無」、「難」と「易」、「長」と「短」、「高」と「下」、「音(音階)」と「声(テンポ)」、「前」と「後」といった対義語がこれでもかと例示されています。


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    相対的な世界

     簡単に言うと「一方があるから他方がある」と言い換えて矛盾のない言葉ばかりです。美は特に典型的ですが、美の価値基準に絶対的なものはありません。だって、そんなものがあったら美術の教科書は1ページもあれば十分、ということになりますよね。

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    美人とは?

     美人だけの国も存在しないし、不美人だけの国も存在しないです。善人ばかりの国も存在しないし、悪人ばかりの国も存在しないです。どんな美人にも醜い側面はあるし、どんな善人であっても万人にとっての善人であるとは限りません。

    2.この世界は相対的なもの。


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    老子

     老子は人間のさまざまな価値基準に絶対的なものはなく、相対的なものであると説きます。あらゆるものが美しいと同時に醜くもあり、あらゆるものが善であると同時に不善でもある。

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    神様とピッコロ大魔王

     分かりやすい例でいうと、『ドラゴンボール』の神様とピッコロ大魔王です。本来は一つの人格が、「善」と「悪」の二つの対照的な人格に分かれた「神様」と「ピッコロ大魔王」。しかし、この二つの人格は分離した後も実は互いに関係し合っていて、一方が死ねばもう一方も死んでしまいます。

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    太極図

     道教において太極図が用いられるのも、この相対的な世界の様相を象徴的に図式化しているからです。

     たとえば、黒い勾玉の中に白い〇があります。陰の中にも陽がある。悪人の心にも善の心があることを示しているわけですが、これもピッコロ大魔王の例でわかると思います。

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    善人として死ぬピッコロ大魔王(C)鳥山明『ドラゴンボール』(集英社)

     われわれが誰かを「善人」と「悪人」を分けたところで、それはその人の人生の一部を切り取って勝手に「善」と「悪」に峻別しただけで、どんなに悪人であっても、善の心が発露することはあるし、誰かにとっての善人であることがあります。このことは不思議なことではなく、むしろ自然なことです。

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    老子

     こういった価値基準はその社会環境や時代背景、個人個人の感覚としてもまさに人それぞれです。この価値基準を絶対視する、または固執することによって、人間は多くの悩みを抱えます。場合によっては、対立や戦争の原因になることもあるでしょう。老子はその価値基準をもう一度、根っこから見直すことを諭しているのだと思います。

     ちょっと、この話題については荘子とも共通するので今日はここまで。続きは第十一歩目でお会いしましょう。それでは、んじちゃーびら!

     
     
    老荘思想をこよなく愛する九州人。老子や荘子はかなりの変わり者だけど、こんなに厳しくて優しくて賢い師匠は他にはいないと思っています。東洋思想を理解するうえでも最もシンプルでわかりやすいテキストだと思います。

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