
#20 山においてクマはどれくらい危ないのか
山に入る前に確認するものが一つ増えた。クマの出没情報である。環境省の速報値によると、クマによる人身被害は2025年度に238人、うち死者は13人だった。統計を取り始めて以来の最多で、死者が二桁になったのも初めてだ。前年度の2024年度は被害者85人・死者3人だったので、一年で死者が四倍以上に増えたことになる。2026年度も8月末時点ですでに被害者62人、死者6人が出ている(いずれも速報値)。
クマが危ないのは間違いない。ここに異論はない。

しかし、クマ以外にも人を殺す生物はいる。日本のデータで確認できた範囲で、近い年の数字で並べてみよう。いずれも全国の死者数で、山の中の事故に限ったものではない。
• ハチ(スズメバチなど):2021年15人、2022年20人、2023年21人、2024年18人(厚生労働省・人口動態統計)。毎年20人前後で、クマの死者が2〜6人だった年度の数倍にあたる。ただし2024年の18人のうち5人は、発生場所が「家(庭)」と記録されている。
• マダニ(SFTS):届出時点までに亡くなった人が、2021年から順に9、12、9、11、15人(国立健康危機管理研究機構の届出集計)。届出後に亡くなった人は含まれないので、実際はこれより多い。致死率は約27%と推定されており、2025年の患者は192人で過去最多だった。
• 毒蛇(主にマムシ):2018年2人、2019年5人。年に数人。
• 毒草:有毒植物による食中毒の死者は、2015〜2024年の10年間で18人。イヌサフランやトリカブトなどで、ニリンソウなどの山菜との誤食が知られている。
• 毒キノコ:2016〜2025年の10年間で5人。
イノシシやシカなどの死亡事故も起こりうるが、年別の死者数を確認できる統計は見つけられなかった。
足し合わせてみると、2024年なら、ハチ18人、SFTS11人、毒草で2人、毒キノコで1人で、これだけで32人になる。毒蛇は最新年の値がないので含めていない。同じ年度のクマは3人だった。クマが13人だった2025年度でさえ、クマ以外の合計はこれを超える規模だ。単独でみると、ハチやマダニのほうが危ない。

とはいえ、クマ対策は必要だ。環境省は2026年8月にクマ撃退スプレーの性能に関する推奨要件を示し、環境相も登山者に出没情報の事前確認を求めている。鈴やラジオで人の存在を知らせ、スプレーを持つ。これは続けたほうがいい。ただ、スプレーが機能するのは、クマと遭遇してしまったその瞬間だけだ。それだけで備えた気になると、ほかの危険が手つかずになる。ほかの動植物にも備えようとすると、以下のようなこともする必要がある。
・クマ:クマスプレーやクマ鈴を携行する。スプレーは腰やショルダーベルトなど、すぐ抜ける位置に付ける。使用期限と安全ピンの外し方も確認する。クマ鈴等で自分の位置を知らせる。
・ハチ:帽子と淡色の長袖を着る。エピペン(アナフィラキシーが起きた際に、医師の治療を受けるまでの間、症状の進行を一時的に緩和するためのアドレナリン自己注射薬)は医師に相談して携行する。ポイズンリムーバーなども救急セットに入れる。
・マダニ:長袖・長ズボンにして、裾はゲイターの中に入れる。虫よけ剤はマダニへの効果が表示されているものを選び、下山後は着替える。
・シカ・イノシシ:鈴やラジオで人の存在を知らせる。食べ物や生ゴミは密封して持ち帰る。
・毒蛇:足首を覆う登山靴にゲイターと長ズボン、岩場用の手袋、足元の草を払うストックを用意する。
・毒草・毒キノコ:装備では防げないので、採らない、持ち帰らない、食べない。

気をつけることが多すぎる。持っていかなければいけないものも多い。すべてやるのはかなり大変だが、すべてやったほうがいいことである。一方で、すべての対策は、ほかの危険とトレードオフだ。マダニ対策は熱中症のリスクを上げるし、対策の荷物が増えると、疲労につながり、滑落や転倒のリスクがあがる。登山における死傷者数を原因別でみると、動植物が絡まない滑落や転倒などの事故のほうが圧倒的に多い。危険な動植物の対策を目的にすると、すべてやったほうがいいのだが、山で死なないことを目的にすると、荷物を増やしすぎるのはやめたほうがいい。ちなみに死なないことだけを目的にすると、山に登らないほうがいいし、なんなら家から出ないほうがいい。運動不足により中長期的にみると早く死ぬかもしれないが。
結局、いちばん効果的なのは「どの危険にどれだけ備えるか」を決めることである。しかし、それがとにかく難しい。なにが危険かは、場所や季節で大きく変わるからだ。クマは九州にはいないし、雪山には出てこない。ハチは森林限界を超えたところには出てこないだろう。また、その人の体質やその日の体調によっても変わってくる。ハチに刺されたことがない人は、エピペン携行の重要度が下がるし、体力があれば対策用品を詰め込んでも大丈夫だ。

季節や体調によっても左右される以上、一律な基準を設けるのは難しい。個々人がリスクマネジメントを行う必要がある。ではリスクをどのように扱えばいいのだろうか。
登山と同じように、明確な危険があると分かっていながら、それをやらなければならない業界として、建設業がある。そのなかではリスクマネジメントの手法に則り、特定→分析→評価→対応の4段階のプロセスでリスクが扱われている。
まず「特定」である。行く山と季節に、何がいるのかを洗い出す。クマは出没情報で確認できる。ハチは夏から秋、マダニは春から秋というように、時期でも変わる。シカやイノシシは、里に近い低山ほど出合いやすいだろう。ここは調べれば済むので、いちばん手間が少ない。
次が「分析」で、起こりやすさと、起きたときの重さを見る。クマは起こりにくいが重い。ハチやマダニは起こりやすく、長袖長ズボンを着るという対策だけなら簡単だ。転倒は誰にでもよく起きるが、場所によっては重篤化する。ここに自分の条件を重ねる。ハチに刺された経験があるか、アレルギー体質か、持病はあるか、その日の体調はどうか。同じ山に登っても、人によって答えは変わってくる。
三つ目の「評価」では、その危険を受け入れられるかを決める。すべてをゼロにはできないので、どこまで許すかの順位を決める。命に直結するものと、荷物を増やしてでも防ぐ価値があるものを先に決める。
最後の「対応」には、大きく四つの選択肢がある。
・回避:危険そのものを避ける。出没が多い山や時期をやめる。クマの被害が多い地域を避けるなど。
・低減:装備や行動で確率や被害を下げる。ここまで書いてきたのは、ほとんどこれである。
・移転:保険などで他者と分けあう。山岳保険に入るなど。
・受容:残ったリスクは受け入れて登る。
前述の通り、すべての対応は他のリスクとのトレードオフだ。お金で解決する山岳保険でさえも、限りある資源であるお金を使う。そのお金でもっといい装備を買えば防ぐことができる事故があるかもしれない。これをやれば正解ということはなく、バランスをとらなくてはいけない。

なお、クマとの遭遇なんかよりも圧倒的に起こりやすく、割と重篤になりやすいが、受容されがちなリスクとして、交通事故がある。私自身も、自分が運転しているときにスリップしたり、助手席に乗っているときに鹿とぶつかったりと、山の前後ではヒヤリハットがとても多い。それでも私は、クマ鈴を携行しても、車移動をやめていない。探検家の角幡唯介は、リスクに対する評価を次のように述べている。
現実的な死のリスクとそれにたいする恐怖心は別物だ。どのような危険があるか認識し、それを引きうけてはいるものの、それは怖さとはちょっとちがう。 ー中略ー 多くの人は交通事故のリスクをわかっていても、町中を自転車で走ることに死の恐怖は感じない。
要するに慣れだということだ。なにかを繰り返しやっている時点で、恐怖心が薄れて適切な評価ができなくなっていく。初めて山に入った人は、山のあらゆるものを怖がる。それが正確な評価とは限らないが、少なくとも慣れによる過小評価はない。慣れた私のほうが、確実にリスクを過小評価しているだろう。定期的に登山未経験者を山に連れていき怖がってもらうことが、自身の安全性向上にもつながるかもしれない。連れていかれるほうは怖い思いをするだけなので、たまったものではないが。