
待つ時間
待つ時間
病院のトイレで尿を取る時、決まって思い出す時間がある。二十数年前、痩せていく父の体を見て、素人目にも異常が分かり、病院へ行こうと言ったが、父は首を振った。ならば行きたくなった時に言ってくれ、と伝えた。ある日、父は静かに「病院へ行きたい」と言った。
病院で渡された紙のコップ。白いタイルの壁、換気扇の低い唸り、遠くで名前を呼ぶ声。父は緊張のあまり尿が出ない。三十分ほど、ただ時間だけが過ぎていった。早く診てもらいたい気持ちが胸を締めつける。父の背中は細く、肩がわずかに震えていた。
私は自分の尿を取って提出した。医者は怪訝そうに「尿に異常はありませんが、入院が必要です」と言った。理由を正直に話すと、医者は少し目を伏せ、静かにうなずいた。そのうなずきは叱責でも同情でもなく、状況を受け止める医療者の肯定だった。
あの三十分は、父の体だけでなく、家族の心も試される時間だったのだと思う。何もできず、ただ傍に立ち、時計の針が進むのを見守るしかない時間。あの三十分は、父が死ぬまで続く長い時間の始まりだった。
今、私は血糖の検査で毎月病院に通う。採尿室の前に立つと、あの日の父の背中がふと浮かぶ。紙コップを持つと、ばね指で指が引っかかる。その感触が、父の震える肩と静かに重なる。
検査を終えて病院を出るとき、秋の光の中でふと、あの三十分の重さが胸の奥に沈む。思い出のほうが先に歩き出すことがある。あの日から続く長い時間は、今もゆっくりと流れている。
今回も参加させて頂きます。