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釜石の鉄に、クレマチスは策略を絡める――策略とは、人を騙すことではなく、騙されたあとも沈まないために根を張ることだった

    借金に追われる料理人・吉見天一は、釜石の食を救うため、クラウドファンディングと投資家を巻き込んだ再起の賭けに出る。だが、鉄の街に伸びたクレマチスの蔓は、夢も、金も、味も、人の弱さまでも静かに絡め取っていく。

    本作はフィクションです。
    登場する人物・出来事・場所はすべて創作であり、実在のものとは関係ありません。


    第一章 鉄の街に、蔓は伸びる

    1

    「オー、ワオ。ビッグ。ベリー、ビッグ」

    厨房の小窓から聞こえた声に、吉見天一は包丁を止めた。

    客席の真ん中で、背の高い外国人の男が丼を前にして両手を広げている。同行の女が笑いながらスマートフォンを構え、もう一人の若い男が動画を回していた。彼らのテーブルに置かれているのは、「天と海の幸・1号店」の看板メニュー、三陸爆発丼だった。

    直径三十センチの大鉢に、白飯が見えなくなるほど大葉を敷き、その上にサーモン、イクラ、メカブ、ネギトロ、ホタテ、ウニを山のように盛る。頂上には、小さな金箔を一枚。地元の常連はまず頼まない。けれど、港や大観音を回った観光客、とくに円安で日本の食事を安く感じる外国人にはよく出た。

    一杯、四千五百円。

    天一が最初にこの値段をつけたとき、アルバイトの紗季は「強気ですね」と目を丸くした。けれど、結果は出た。客は驚き、写真を撮り、動画を上げ、翌週には同じような客が三組来た。誰かが食べるためではなく、誰かに見せるために注文する。天一はその流れに乗った。乗らなければ、店が沈むと思っていた。

    「テンイチさん、これ、また残ってます」

    紗季が下げてきた皿を、厨房のシンク横に置いた。三陸爆発丼は半分以上残っていた。ウニだけが綺麗に消え、イクラも目立つところだけつままれている。大葉は写真を映えさせるために散らされ、酢飯は醤油とメカブでぐずぐずになっていた。

    「捨てていいですか」

    「待て」

    天一は短く言った。

    紗季が手を止める。二十一歳の専門学生で、昼だけ入っている子だった。魚の匂いにはまだ慣れていない。残飯に近づくと、いつも少し顔をしかめる。

    天一は箸を取り、皿の中からまだ使えるホタテの端をつまみ上げた。火を通せば、まかないの出汁にはなる。サーモンの切れ端も、筋の少ないところだけ別皿に避ける。大葉は無理だ。飯も使えない。イクラも、箸で潰されていた。

    「これだけ、まかない用」

    「でも、もう客が箸つけてますよ」

    「火を入れる。嫌なら俺が食う」

    紗季は何か言いたげにしたが、結局うなずいた。

    天一は、避けたホタテを小さなボウルに入れた。指先にぬるい醤油だれが絡む。生臭さの中に、ほんの少しだけ磯の甘い匂いが残っていた。

    昔は、こんなものを出していなかった。

    開店した五年前、「天と海の幸」は、十二席だけの小さな小料理屋だった。メニューは日替わりの焼き魚定食、刺身三点、ホタテの酒蒸し、海藻の小鉢、締めの小さなラーメン。それだけでよかった。市場から戻った室井雄三が、時々顔を出し、黙って刺身を食べて帰った。近所の年寄りが「ここの煮魚は骨の際がうまい」と言った。観光客は少なかったが、皿は空になって戻ってきた。

    いまは違う。

    皿は派手になり、客は増え、店の名前は何度もネットに載った。けれど、厨房に戻る皿には、食べ残しが多くなった。食べ残されたものを見るたび、天一は自分の中のどこかが薄く削られていくのを感じた。

    「店長、次、四名。台湾の人っぽいです。爆発丼二つ、あと海宝漬の小鉢」

    「分かった」

    返事をしながら、天一は冷蔵庫を開けた。仕込み済みのネタ箱が並んでいる。サーモンはチリ産、イクラは加工品、ネギトロは冷凍パック。ホタテとメカブだけは三陸のものを使っている。ウニも、時期によっては本物を使えない。香りの強いタレでごまかすこともあった。

    全部が偽物ではない。
    だが、全部が本物でもない。

    その曖昧さの上に、店は立っていた。

    天一は酢飯を大鉢に盛り、大葉を並べた。指先は迷わず動く。見栄えのいい角度も、写真を撮ったときの高さも、もう体が覚えてしまっている。頂上にウニを置いた瞬間、客席から小さな歓声が上がった。

    天一は笑顔を作った。

    「お待たせしました。三陸爆発丼です」

    客のスマートフォンが、一斉に光った。

    その光が、天一には時々、溶鉱炉の火のように見えた。人を熱くさせる火ではない。何かを焼き切って、表面だけを明るく照らす火だった。

    午後二時を過ぎると、客足が切れた。

    外では釜石湾からの風が通りを抜け、店の前に置いたのぼり旗を斜めに揺らしている。「三陸の海を食べ尽くす」と書かれた赤い文字が、潮気を吸って少し丸まっていた。

    天一は厨房の奥に置いたタブレットを開いた。

    ネットバンキングの画面に、口座残高が表示される。

    現在高、百四十二万八千五十円。

    数字だけを見れば、個人の預金としては悪くない。けれど、月末までに必要な支払いは、その倍では足りなかった。市場への未払い、店舗の家賃、光熱費、アルバイトの給与、クラウドファンディング用の撮影費、広告費、過去のコンサル契約の残金。小さな請求が蔓のように絡みつき、一本一本は細いのに、全体では首を締める太さになっていた。

    一番重いのは、三陸アイランド・プロジェクトの焦げ付きだった。

    三千二百万円。

    天一はその数字を、もう何度も頭の中で唱えていた。唱えすぎて、祈りのようになっていた。

    一年前、天一は釜石港近くの使われなくなった倉庫群を利用した、食の大型モール構想を立ち上げた。魚市場から直送される海産物、地元の加工品、釜石ラーメン、海宝漬、ラグビー観戦客向けのフードコート、インバウンド向けの調理体験、夜は港を見ながら食べるコース料理。名前は「三陸アイランド」。いま思えば、少し浮ついた名前だった。けれど、当時の天一には本気だった。

    鉄で栄え、鉄の火を失い、海と山と港で生き直してきた街に、もう一度人の流れを作る。地元の食材を高く売り、若い料理人を雇い、観光客にただ写真を撮らせるだけでなく、食べたものを忘れられない場所にする。

    地銀の支店長は、最初だけよく笑った。

    「吉見さんのような若い人が、釜石の食を引っ張ってくれるなら、うちとしても応援したい」

    市の担当者も、吹越ホテルのオーナーも、観光関係者も、同じような言葉を言った。応援。連携。地域活性。持続可能。どの言葉も、その時はまだ温かく聞こえた。

    だが、資材費が上がった。キーテナントに予定していた首都圏のベーカリーが撤退した。基本設計を頼んだ会社から違約金を請求された。地銀は追加融資を渋り、最初に見せた笑顔のまま、書類だけを冷たくした。

    残ったのは、使われない図面と、仮押さえした土地の費用と、個人保証のついた借金だった。

    天一はタブレットを伏せた。

    厨房のステンレス台に映った自分の顔は、三十三歳にしては少し老けて見えた。目の下に薄く隈があり、髪の生え際には汗が乾いた白い跡がある。昔はもっと、目に力があった気がする。市場に並ぶ魚を見ただけで、その日の献立が勝手に頭の中に浮かんだ。いまは先に原価を考える。次に写真映えを考える。味は、そのあとに来る。

    勝手口が鳴った。

    「おい、生きてるか」

    低い声と一緒に、冷たい空気が厨房に入ってきた。

    室井雄三だった。

    白いゴム長靴、防水エプロン、首にかけたタオル。四十歳にしては顔に皺が深い。市場の冷気と潮風で削られたような顔だった。手には発泡スチロールの箱を二つ抱えている。箱の蓋の隙間から、氷水がぽたりと床に落ちた。

    「室井さん。今日はもう仕入れ、頼んでなかったはずですけど」

    「ホタテ。朝、いいのが少し余った。お前、明日使うって言ってただろ」

    「支払いは、週明けになります」

    「分かってる」

    室井は短く言い、箱を床に置いた。

    紗季が奥から出てきて、箱をどかそうと足先で押した。その瞬間、室井の目が変わった。

    「踏むな」

    店の空気が一瞬で冷えた。

    紗季は固まった。天一も、思わず手を止める。

    室井は箱を両手で持ち直し、調理台の上に置いた。蓋を開けると、氷の中から殻つきのホタテが現れた。貝殻の縁に海藻の切れ端が絡み、まだかすかに動いているものもある。天一はその匂いを嗅いだ。冷たい海の匂いだった。

    「すみません」

    紗季が小さく言った。

    室井は返事をしなかった。ただ、ホタテの一枚を手に取り、殻の合わせ目を指でなぞった。

    「こいつら、朝まで海にいた」

    それだけ言って、手を引っ込めた。

    天一は箱の中を見つめた。いいホタテだった。厚みがあり、貝柱も太い。これなら、酒蒸しにすれば常連は喜ぶ。だが、爆発丼に使えば、ただの飾りになる。派手な山の中の白い一片として、写真の中に埋もれる。

    室井の視線が、シンク横の残飯に向いた。

    「また、それか」

    天一は何も言わなかった。

    「派手な山だな。山っていうより、崩れた防波堤か」

    「売れてます」

    「売れてるのと、うまいのは違う」

    「そんなこと、分かってますよ」

    言ってから、天一は自分の声が思ったより荒れていることに気づいた。

    室井はまばたきもせず、天一を見た。市場で魚を見る目だった。腹の張り、目の濁り、鱗の乾き。それを見て、値を決める目。逃げ場のない目だった。

    「分かってるなら、なんでやる」

    天一は笑おうとした。失敗した。

    「借金があるんです」

    「魚に関係ねえ」

    「店を潰すわけにはいかない」

    「それも魚に関係ねえ」

    「じゃあ、どうしろって言うんですか。真面目に刺身を引いて、地元の客に千二百円の定食を出して、それで三千万返せますか。返せないでしょう。室井さんだって知ってるはずだ。綺麗事じゃ、店は続かない」

    室井はホタテの箱に蓋をした。氷の擦れる音がした。

    「綺麗事じゃねえ。下手になったって言ってるんだ」

    その言葉は、怒鳴られるより深く刺さった。

    「昔のお前は、身を引く前に魚を見てた。いまは客のスマホを見てる。皿を出す前から、写真の角度を気にしてる。魚は、そのあとだ」

    天一は唇を噛んだ。

    室井は勝手口へ向かいかけて、振り返った。

    「そいつは魚じゃねえよ」

    シンク横の残骸を顎で示し、そう言った。

    「魚に似た、別のもんだ」

    勝手口が閉まった。

    残された厨房に、ホタテの匂いだけが残った。

    紗季は気まずそうに、シンクの前に立っていた。

    「店長」

    「いい。片付けて」

    「でも、まかない用の」

    「俺がやる」

    天一はボウルに避けたホタテの端を見た。室井の言葉は腹立たしかった。腹立たしいのに、どこかでほっとしている自分がいた。まだ怒ってくれる人間がいる。まだ自分を、完全には見捨てていない人間がいる。

    それが分かるのが、余計に苦しかった。

    2

    その日の閉店後、天一は店の明かりを落とし、港の方へ歩いた。

    釜石の夜は早い。駅前の明かりはまばらで、シャッターの下りた商店の看板が街灯に薄く照らされている。新しい店もある。観光客向けの案内板も、ラグビーのポスターも、復興をうたう横断幕もある。けれど、夜になると、それらの明るい言葉の隙間から、昔からある錆の匂いが立ち上がってくる。

    海から風が吹いていた。

    天一はコートの襟を立て、ポケットに手を入れた。指先が、くしゃくしゃになった督促状に触れた。昼に開けられなかった封筒だ。開けなくても中身は分かる。分かっているから、開けられなかった。

    港の倉庫群は、海沿いの道から少し入ったところにあった。昔はもっと人と車の出入りがあった場所だ。いまは使われていない倉庫が並び、シャッターの塗装が剥がれ、古い鉄骨に赤錆が浮いている。海風を吸った錆は、乾いた茶色ではなく、湿った黒に近い色をしていた。

    天一は、ひときわ大きな倉庫の前で立ち止まった。

    ここに、三陸アイランドの中心棟を作るはずだった。

    一階は市場直送の海鮮フードホール。二階は海を見ながら食事ができるカウンター。奥には水産加工の体験スペース。週末にはラグビー観戦客を取り込み、平日は宿泊客向けの朝食や弁当を製造する。高齢の漁師や加工場で働いてきた人たちにも、短時間で働ける場所を作る。若い料理人に小さなブースを貸し、独立の足がかりにしてもらう。

    説明すればするほど、誰もが「いいね」と言った。

    いいね、という言葉ほど軽いものはないと、天一はあとで知った。

    スマートフォンを取り出し、保存していた完成予想図を開く。画面の中では、錆びた倉庫は木とガラスを使った明るい施設に変わっている。港を背に、笑っている家族連れ。蒸し牡蠣を持つ外国人観光客。釜石ラーメンの小さな暖簾。三陸の魚を握る若い板前。すべて、もう存在しない未来だった。

    天一は画面を閉じた。

    倉庫の脇に、細い蔓草が絡んでいた。冬が近く、葉はほとんど落ちている。乾いた蔓が錆びたフェンスに巻きつき、風に震えていた。夏なら花が咲いたのかもしれない。いまは、ただ枯れた紐のようだった。

    そのとき、スマートフォンが鳴った。

    表示された名前を見て、天一は一度深呼吸した。

    吹越亨。

    この街で三つのビジネスホテルを持つ男。朝食ビュッフェの評判で、観光客にも出張客にも知られている。天一のモール計画にも、早い段階で関心を示してくれた一人だった。

    「はい、吉見です」

    「夜分にすまないね。いま、話せるかな」

    吹越の声は、いつも穏やかだった。押しつけがましさがなく、年配者特有の説教臭さもない。だからこそ、いつの間にか相手の懐に入っている。

    「大丈夫です」

    「クラウドファンディングの件、池谷さんから概要を聞いたよ。なかなか面白い。明日の夜、うちのラウンジで少し話さないか。高橋さんと的場さんも呼んである」

    天一は倉庫のシャッターを見上げた。

    「吹越さん、本気で、まだ可能性があると思いますか」

    電話の向こうで、少しだけ間が空いた。

    「可能性というのはね、吉見くん。あるかないかではなく、誰がそう見せるかで決まる時がある」

    天一は返事をしなかった。

    「君は料理人だ。だが、料理だけでは勝てない局面に来ている。だったら、料理以外の火も使うしかない。鉄だって、火がなければ形を変えられないだろう」

    その言葉が優しいのか、冷たいのか、天一には分からなかった。

    「明日、二十時でいいかな」

    「はい。伺います」

    通話が切れた。

    天一はもう一度、倉庫を見た。フェンスに絡んだ蔓が、風に小さく鳴っている。枯れているように見えても、根までは見えない。地面の下でまだ生きているのか、本当に死んでいるのかは、春にならなければ分からない。

    天一は、ポケットの督促状を握りつぶした。

    春を待つ余裕など、自分にはなかった。

    3

    翌朝、天一はいつもより早く市場へ行った。

    まだ空は白み始めたばかりで、港には冷たい霧が残っていた。漁船のエンジン音、台車の車輪が濡れた床を走る音、発泡スチロールの箱が積まれる音、男たちの短い声。市場の朝には、余計な説明がなかった。誰も「地域資源」などと言わない。ただ、魚が揚がり、値がつき、運ばれていく。

    室井は競り場の端にいた。

    魚を見ているときの室井には、近づきにくいものがある。人間相手に話すときより、魚相手の方がずっと丁寧だった。箱の中のヤリイカを一匹持ち上げ、透けた身の張りを見る。秋鮭の腹を軽く押し、戻りを見る。ホタテの殻を開け、匂いを嗅ぐ。

    天一は少し離れたところで、その手つきを見ていた。

    「何だ。昨日の説教の続きでも聞きに来たか」

    室井が魚から目を離さずに言った。

    「いいホタテでした」

    「当たり前だ」

    「今日、少し分けてもらえますか。酒蒸しで出します。爆発丼には使わない」

    室井の手が止まった。

    「金は」

    「週明けになります」

    「なら、少しだけだ」

    「ありがとうございます」

    室井は返事の代わりに、隣の若い市場職員に箱を指示した。天一は頭を下げた。

    市場の奥では、別の業者がメカブの箱を検品していた。深い緑色が氷の上で光っている。海藻は地味だ。ウニやイクラのように客を驚かせる派手さはない。けれど、口に入れたときの粘りと香りは、海そのものに近い。

    「室井さん」

    「あ?」

    「三陸アイランド、もう一度やります」

    室井はようやく天一を見た。

    「まだ言ってんのか」

    「常設モールは無理です。金がない。だから、まず二日間の食の祭典としてやる。クラウドファンディングで資金を集めて、東京の投資家を呼びます。成功すれば、倉庫群の計画も別の形で戻せる」

    「投資家」

    室井はその言葉を、舌の上で腐った魚を転がすように言った。

    「金を持ってくる人間です」

    「金だけ持ってくる人間はいねえよ。必ず何か持って帰る」

    「分かってます」

    「分かってねえ顔だな」

    天一は言い返そうとして、やめた。市場の床に、イカの墨が薄く広がっていた。誰かが水で流す。黒い水が排水溝へ吸い込まれていった。

    「室井さんにも協力してほしいんです」

    「嫌だ」

    即答だった。

    「まだ内容も言ってません」

    「聞く前から嫌だ。東京の投資家に見せるための魚なんざ、俺は触らねえ」

    「見せるためじゃない。食べさせるためです」

    「同じだ。お前はもう、相手の舌じゃなくて財布を見てる」

    天一は息を詰めた。

    室井は、少しだけ声を落とした。

    「天一。お前が本気で魚を出したいなら、黙って皿を出せ。説明なんかいらねえ。うまけりゃ、人は黙る。まずいもんほど、横に長い説明がつく」

    市場の喧騒の中で、その言葉だけが妙にはっきり聞こえた。

    「でも、いまは説明しないと届かない時代です」

    「届かせる相手を間違えるな」

    室井はそれだけ言うと、別の箱へ向かった。

    天一は、氷の上に並んだ魚を見つめた。どの魚も、天一を責めてはいない。ただそこにあるだけだった。冷たく、重く、正直だった。

    4

    吹越ホテルの最上階ラウンジには、港の夜景がよく見えた。

    宿泊客用ではない。オーナーと限られた客だけが使う、小さな部屋だった。磨かれた木の床、低い照明、壁に飾られた古い釜石の写真。鉄鉱石を運ぶ人夫たち、煙を上げる工場、港に並ぶ漁船、ラグビーの試合後に泥だらけで笑う選手たち。どの写真も白黒で、時間の向こうからこちらを見ているようだった。

    窓際には、大きな鉢植えが置かれていた。細い支柱に、枯れかけた蔓が絡んでいる。葉はわずかに残っているだけで、花はない。

    「クレマチスですか」

    天一が何気なく訊くと、吹越は振り返った。

    「よく分かったね」

    「昔、母が育ててました。花は綺麗だけど、蔓がすぐ絡むから手入れが大変だって」

    「絡むから、美しい形にもなる」

    吹越はそう言って、蔓の先を指でそっと直した。乱暴に触れたら折れてしまいそうな細い蔓が、支柱に沿って収まる。

    「人の仕事も、似たようなものだよ。真っすぐ伸びられる人間なんて、そうはいない。何かに絡み、絡まれながら、どうにか上へ行く」

    天一は返事に困り、窓の外を見た。

    遠くに、釜石大観音の白い姿がぼんやり浮かんでいる。港の灯りの向こうで、何も言わず街を見下ろしていた。

    ラウンジには、すでに三人が来ていた。

    池谷浮葉は、窓際のソファに足を組んで座り、ノートパソコンを開いていた。黒いニットに、細い金のネックレス。東京の匂いを残した女だった。釜石に来て半年になるが、言葉の端々にまだ都内の会議室の温度があった。

    「吉見さん、遅い。今日は勝負の設計図を作る日よ」

    彼女は笑った。笑い方は柔らかいが、目は常に数字を追っている。

    高橋ミヨは、テーブルの端に保冷バッグを置いていた。水産加工会社の商品開発担当。化粧気は薄く、髪はきっちり後ろで束ねている。手の甲には、小さな傷がいくつもあった。工場で何度も試作を重ねる人間の手だった。

    的場秋穂は、スーツ姿で資料を揃えていた。広告代理店のスポーツツーリズム担当。二十七歳。若いが、顔には疲れがあった。会社のロゴ入り封筒を膝の上に置き、スマートフォンの通知を何度も確認している。

    吹越が全員に酒を注ごうとすると、的場は小さく手を振った。

    「すみません。まだ戻って資料を直すので」

    「働き者だ」

    吹越は笑って、無理には勧めなかった。

    天一は円卓の前に立ち、深く頭を下げた。

    「今日は、ありがとうございます」

    「堅い挨拶はいいから、早く始めましょう」

    浮葉が指でテーブルを軽く叩いた。

    天一はタブレットをプロジェクターにつないだ。壁に、企画タイトルが映る。

    釜石フードアイランド
    鉄の街と三陸の海をつなぐ、二日間の食の祭典

    浮葉が作ったロゴは、悔しいほどよくできていた。鉄を思わせる黒い線と、海の青。そこに、蔓のような細い曲線が絡んでいる。天一は最初、その曲線が気になった。何かに巻きつくようで、美しいのに少し不吉だった。

    「常設モールは、いまの資金では不可能です」

    天一は話し始めた。

    「ですが、二日間の食イベントとしてなら実行できます。釜石港の倉庫群を使った将来構想を示しながら、まずは小規模な形で需要を証明する。三陸の魚、加工品、釜石ラーメン、ホテル朝食、ラグビー観戦客向けの高タンパクメニュー、インバウンド向けの体験型料理。これを一つの祭典として見せます」

    「見せる、ね」

    浮葉が満足そうに言った。

    「そう。まずは見せなきゃ始まらない。どんなにいい食材があっても、外から見えなければ存在しないのと同じよ。釜石は素材が強い。鉄、海、ラグビー、震災伝承、産業遺産。言葉にしやすいものが揃ってる。でも、散らばってる。そこを束ねるのが今回の仕事」

    「束ねるっていうか、盛るんでしょう」

    ミヨが静かに言った。

    浮葉は笑顔を崩さなかった。

    「伝わる形に整える、と言ってほしいわね」

    ミヨは返事をしない。保冷バッグの中から、小さな瓶を取り出した。透明な瓶の中で、メカブ、イクラ、アワビの切り身が琥珀色のジュレに包まれている。

    「うちの試作品です。急速冷凍して、解凍後のドリップをかなり抑えています。味はまだ調整中ですが、リターン商品に使える可能性はあります」

    天一は瓶を手に取った。

    冷たい瓶越しに、中の海藻が光っている。派手ではない。けれど、見ているうちに食べたくなる力があった。

    「これ、すごいですね」

    「すごくないと困るんです」

    ミヨの声には、棘ではなく疲れがあった。

    「開発に五千万円近くかかってます。会社は年内に結果を欲しがってる。工場のラインも空けてもらってるし、パートさんたちにも残業してもらってる。試作品で終わったら、私だけじゃなくて何人も困る」

    天一は瓶をテーブルに戻した。

    「必ず目玉にします」

    「目玉にするだけじゃ足りません。売れる形にしてください」

    ミヨは天一を見た。

    「吉見さんの夢は嫌いじゃないです。でも、夢は給料日に振り込まれないので」

    その場が少し静かになった。

    的場が咳払いをした。

    「スポーツツーリズム側の話をします。まず、私の権限で補助金を動かせるわけではありません。そこは誤解しないでください」

    天一はうなずいた。

    「ただ、ラグビーの街としての釜石を食と結びつける企画は、上に通しやすいです。選手を育てた食文化、観戦客の滞在時間延長、スタジアム周辺の回遊導線。そういう言い方なら、来期予算の資料に入れられます」

    「来期では遅いんです」

    天一が言うと、的場は少しだけ眉を寄せた。

    「分かってます。だから、今年度内の実証イベントという名目で、小さく滑り込ませる。ただし、イベント費として直接出せるかは分かりません。広告出稿、誘導看板、PR映像、調査委託。そういう箱に分ける必要があります」

    浮葉がすぐにメモを取った。

    「箱はこっちで設計する。秋穂さんは、上に嫌われない言葉に置き換えて」

    「簡単に言わないでください」

    的場の声が、ほんの少し硬くなった。

    「私はまだ主任でもないんです。地方案件を任されているように見えて、実際は東京の上司が判子を押すための材料を集めてるだけ。数字が出なければ、次は外されます」

    吹越が、そこで初めて口を開いた。

    「みんな、背負っているものがあるんだね」

    その声は穏やかだった。誰かを責めるでもなく、慰めるでもない。ただ、テーブルの上に置かれたものを一つずつ確認するような声だった。

    「浮葉さんは実績が欲しい。的場さんは社内で通る形が欲しい。高橋さんは商品を世に出したい。天一くんは、店と計画を生き残らせたい」

    吹越は全員の顔を見た。

    「なら、必要なのは、外から見て分かる火だ。小さな火では駄目だ。遠くからでも、あそこに熱があると分かる火がいる」

    「工藤広重ですね」

    浮葉が言った。

    その名前が出た瞬間、的場の手が止まった。ミヨも瓶から目を上げた。

    工藤広重。

    元証券マン。四十代前半で会社を辞め、資産運用と投資セミナーで知られる男。SNSのフォロワーは数万人。国内外に不動産を持ち、地方の事業にも時々顔を出す。彼が「面白い」と言えば、周辺の投資家やオンラインサロンの会員が動く。もちろん、良い意味だけではない。彼の通った後に、地元の経営者が代表権を失ったという話も聞いたことがある。

    天一は唾を飲み込んだ。

    「工藤さんを呼べるんですか」

    浮葉はノートパソコンの画面を天一の方へ向けた。

    「呼ぶんじゃない。向こうから見つけたと思わせるの。工藤さんは、招待状を嫌う。自分が誰よりも早く鉱脈を掘り当てたと思いたい人だから」

    画面には、クラウドファンディングページの下書きが映っていた。

    世界三大漁場・三陸の恵みを未来へ。
    鉄の街・釜石から始まる、食の再起動。

    白衣を着た天一の写真。市場で魚を見つめる横顔。倉庫群の錆びたシャッター。釜石大観音。ラグビー場へ続く道。ミヨの海宝漬。ホテル吹越の朝食ビュッフェ。すべてが滑らかにつながり、ひとつの物語になっている。

    天一は、自分の写真を見た。

    画面の中の自分は、まっすぐな料理人に見えた。借金に追われ、爆発丼の食べ残しをまかないに回している男には見えなかった。

    「よく撮れてるでしょう」

    浮葉が言った。

    「嘘みたいだ」

    天一が思わず漏らすと、浮葉は少しだけ笑った。

    「嘘じゃない。見せる角度を選んでいるだけ」

    吹越がグラスを置いた。

    「初速は大事だね」

    浮葉がうなずく。

    「クラファンは最初の二十四時間で決まります。開始直後に支援が集まっているように見せる。地元企業、関係者、宿泊業、加工業、観光関係。きちんと名目を立てた上で、初期支援を厚くする。そこにメディア露出を重ねる」

    「それは、サクラでは」

    的場が小さく言った。

    浮葉は即答しなかった。代わりに、吹越が静かに言った。

    「応援したい人が、早めに応援するだけだよ」

    的場は黙った。

    天一は画面を見続けた。支援額が伸びる未来が見えた。工藤が興味を持つ未来が見えた。倉庫群に人が戻る未来も見えた。

    同時に、室井の声が耳の奥で鳴った。

    うまけりゃ、人は黙る。
    まずいもんほど、横に長い説明がつく。

    天一は、その声を押し殺すように拳を握った。

    「やらせてください」

    自分でも驚くほど、はっきりした声だった。

    「やります。工藤さんを釜石に呼びます。クラファンも、食の祭典も、全部」

    吹越はうなずいた。

    「銀行には、私から一度話しておくよ。返済を少し待ってもらえるかもしれない」

    天一は頭を下げた。

    「ありがとうございます」

    「礼は、まだ早い」

    吹越はクレマチスの鉢植えに視線を移した。

    「蔓はね、伸び始めが一番折れやすい。支えが必要だ。けれど、支えに絡みすぎると、自分ではほどけなくなる」

    誰に向けた言葉なのか、天一には分からなかった。

    ラウンジの窓の外で、釜石湾が黒く沈んでいた。

    5

    クラウドファンディングは、三日後の午前十時に公開された。

    天一は店の二階にある小さな事務所で、公開ボタンが押される瞬間を見ていた。浮葉は東京の関係者へ一斉に連絡を流し、的場は会社から許された範囲でスポーツツーリズム関連の投稿を仕込んだ。ミヨの会社は、商品開発中の新技術として海宝漬の画像を出した。吹越ホテルは、「地域の食を応援する宿泊プラン」の告知を始めた。

    最初の一時間で、支援額は三百万円を超えた。

    天一は画面を更新するたび、指先が冷たくなった。個人名、法人名、匿名支援。十万円、三十万円、五十万円。中には百万円の支援もあった。コメント欄には、熱い言葉が並んでいる。

    釜石の挑戦を応援しています。
    三陸の食文化を未来へ。
    地方から日本を変えてください。
    いつか現地で食べたいです。

    天一はそれらの言葉を読んで、嬉しいのか怖いのか分からなくなった。

    昼過ぎ、支援額は八百万円を超えた。

    夕方には、一千二百万円。

    夜には、一千五百万円に届いた。

    店では、いつも通り三陸爆発丼が出ていた。客は笑い、写真を撮った。天一は厨房と二階を何度も行き来し、画面を確認した。支援額が増えるたびに、胃の奥が熱くなる。

    閉店後、紗季が言った。

    「店長、有名人みたいですね」

    「まだ何も始まってない」

    「でも、すごいです。コメント、いっぱい来てますよ」

    天一は曖昧に笑った。

    スマートフォンに、室井からメッセージが届いた。

    『浮かれるな。魚は明日も揚がる』

    それだけだった。

    天一は画面を見て、少し笑った。笑ったあと、なぜか胸が詰まった。

    二階の窓から外を見ると、通りの向こうに古い鉄骨の看板が見えた。潮風で赤く錆びている。その錆が、夜の灯りを受けて鈍く光っていた。

    クラファンページには、天一の言葉としてこう書かれている。

    「釜石の食には、まだ世界に届く力がある。私はその未来を証明したい」

    嘘ではなかった。

    けれど、その言葉の下で何本もの見えない線が動いていることも、天一は知っていた。吹越の支援、浮葉の導線、的場の資料、ミヨの技術、地元企業の名目、そして工藤広重の視線を誘うための言葉。

    どこまでが本物で、どこからが作り物なのか。

    天一は、もう自分でも線を引けなくなっていた。

    6

    東京、六本木。

    工藤広重は、四十二階の部屋で朝のコーヒーを飲みながら、タブレットの画面を見ていた。

    画面には、釜石フードアイランドのクラウドファンディングページが映っている。公開から二十四時間足らずで、支援額は一千八百万円を超えていた。地方の食イベントとしては、不自然なほど速い。

    工藤は支援者の並びを眺めた。

    匿名の高額支援が三つ。地元企業と思われる法人がいくつか。ホテル、加工会社、観光関連。投稿の拡散経路には、見覚えのあるPR関係者の影がある。ページの作りは上手い。写真もいい。言葉も、東京の投資家が反応しやすいように選ばれている。

    鉄の街。
    三陸。
    ラグビー。
    復興。
    食の未来。
    地方の若き料理人。

    工藤は小さく笑った。

    「よく盛ったな」

    怒りはなかった。むしろ、退屈な朝に少しだけ色が差したような気分だった。

    地方の企画は、たいてい真面目すぎる。補助金の申請書をそのまま人間の顔に貼りつけたような言葉で、自分たちの誠実さを訴える。誠実さは嫌いではない。だが、金を動かすには弱い。

    この釜石の企画は違った。

    誠実に見えるように、きちんと設計されている。

    工藤は、そこを評価した。

    ページを下へ送ると、白衣姿の男の写真が出てきた。吉見天一。三十三歳。地元食材を活かした飲食店の店主。頓挫した大型モール計画を、二日間の食の祭典として再起動させる。

    写真の男は、包丁を握り、まっすぐカメラを見ていた。

    工藤は、その顔を拡大した。

    目に焦りがある。うまく隠しているが、隠しきれていない。口元は決意に見えるが、少し硬い。肩に力が入りすぎている。料理人としての腕はあるのだろう。だが、経営者としては追い詰められている。そういう顔だった。

    追い詰められた人間は、条件を飲む。

    工藤は別の資料を開いた。知人に頼んで調べさせた、吉見天一の周辺情報。三陸アイランド・プロジェクトの頓挫。地銀の融資。個人保証。未払いの噂。吹越ホテルとの関係。水産加工会社の新技術。広告代理店のスポーツツーリズム案件。

    「店主本人より、周りの方が使えるな」

    工藤はそう呟いた。

    水産加工の技術は面白い。ホテル朝食の導線も悪くない。釜石という土地名も、物語として使いやすい。工藤が欲しいのは、吉見天一の夢ではなかった。夢を掲げて人を集める看板と、その裏にある設備、商標、流通、行政との接点だった。

    ただ、気に入った点もある。

    吉見天一は、工藤を釣るための餌を用意した。クラファンの初速を作り、メディア導線を敷き、地方の熱狂を演出した。稚拙な部分はある。数字が綺麗すぎる。だが、泥をかぶる覚悟は見える。

    そういう人間は、磨けば使える。

    あるいは、使い終わったあとに外せる。

    工藤はスマートフォンを手に取り、秘書に短いメッセージを送った。

    『来週、岩手県釜石。二日空けて。吉見天一という料理人に会う』

    すぐに返信が来た。

    『承知しました。移動手段を手配します』

    工藤はタブレットを閉じ、窓の外を見た。東京タワーが朝の光の中で薄く霞んでいる。釜石の海も、写真で見る限りでは悪くなかった。現地に行けば、もっと使える絵があるだろう。

    彼はもう一度、クラファンページを開いた。

    支援額は、また少し増えていた。

    数字は正直だ。
    だが、正直な数字ほど、誰かが先に手を入れていることがある。

    工藤は楽しそうに笑った。

    釣られてやる価値は、ありそうだった。

     
    静かな物語を書いています。 何も起きない時間や、言葉にしない気持ち、 そのまま通り過ぎてしまいそうな日常が好きです。 花や季節、暮らしの中に残る感情を、 できるだけ大げさにせず、小説にしています。 気に入ったものがあれば、 ゆっくり読んでもらえたら嬉しいです。

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