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『半透明の海』|風まかせ文芸部

    世界の果てには、三つの海が寄り添うように並んでいる。

    ひとつは、どこまでも澄みきった「透明の海」
    水底の白い砂利や、かすかに揺れる海草の葉脈にいたるまで、すべてが陽の光に照らし出されている。人々はその浅瀬に立ち、無邪気にその清らかさを讃えた。

    ひとつは、光さえ呑み込む「不透明の海」
    絵の具を流し込んだような濃紺の海は、その深淵に何を抱いているのか決して明かさない。人々は遠巻きに眺めるばかりで、舟を出そうとはしなかった。

    そして、そのふたつに挟まれるように広がるのが、「半透明の海」だった。

    波打ち際では足元まで透けて見えるのに、少し沖へ目をやれば、水面はやわらかな霧をまとい、その先の景色をそっと隠してしまう。

    通り過ぎる人々は、その境界を指さして囁いた。

    「どっちつかずの、中途半端な海だ」

    その言葉は、小さな石のように、水底へ静かに沈んでいった。


    半透明の海は、自分の水面が嫌いだった。

    隣の透明の海が、何ひとつ隠さず朝の光を返しているのを見るたび、羨むように波を小さく縮める。

    もう一方の不透明の海が、外敵を寄せつけない鎧のような闇をまとっているのを見るたび、ため息のような泡を吐く。

    「見せるなら、すべてを光の下に晒せばいい。

    隠すなら、すべてを影に閉じ込めればいい。

    そのどちらにもなれない私は、ただ曖昧なだけなのだ。」

    寄せては返す波のたび、そう自分に言い聞かせていた。


    ある満月の夜。

    潮が最も高く満ち、三つの海の境界が静かに触れ合ったとき、震えるような声が夜の水面を伝った。

    「……もう、見ないでくれ。」

    最初に声を漏らしたのは、透明の海だった。

    「誰もが私を美しいと覗き込む。けれど、削られた岩肌も、荒波に刻まれた傷跡も、私には隠すベールがない。どれほど深く潜っても、私はすべてを見られ続け、逃げ場がない。」

    その声が消えると、夜風に押されるように、不透明の海が低く波を返した。

    「私は誰も寄せつけない。だから傷つくこともない。……けれど、この闇の奥に眠る真珠も、私を慕って集まる小さな命も、誰の目にも映らない。私がどれほど迎え入れたいと願っても、その想いは水面まで届かない。」

    夜の底に、二つの波紋が静かに重なった。

    半透明の海は、ただ黙って、その響きを胸いっぱいに受け止めていた。

    澄みきっているからこそ、逃げ場のない痛みがある。

    閉ざしているからこそ、届かない孤独がある。

    そのことを、初めて知った。


    やがて東の空が白み始める。

    半透明の海は、長い眠りから目覚めるように、穏やかに波を揺らした。

    波打ち際では、小魚たちが朝日に照らされ、金色の鱗をきらめかせている。

    けれど、少し沖へ目を向ければ、水面は乳白色の霧をまとい、その先はまだ見えない。

    旅人たちは、その境界に立ち、思い思いに語り始めた。

    「あの霧の向こうには、どんな島があるのだろう。」

    「見たこともない魚が泳いでいるのかもしれない。」

    「きっと、まだ誰も知らない景色が待っている。」

    誰に促されるでもなく、一歩、また一歩と、水辺へ歩み寄っていく。

    すべてが見えてしまう場所では、驚きは長く続かない。

    何も見えない場所へは、足がすくんでしまう。

    けれど、少しだけ透けて見える景色は、人の心に続きを想い描かせる。

    そのとき、半透明の海はようやく気づいた。

    自分が抱えていた曖昧さは、欠けていることではない。

    誰かが希望を描くための、やさしい余白だったのだ。

    「もう少し、先へ行ってみよう。」

    誰かのそんな声とともに、一隻の白い帆船が静かに沖へ滑り出した。

    波は船底をやさしく支え、その音は朝の光のなかへ溶けていく。


    今日も世界の果てで、三つの海は寄り添うように並んでいる。

    透明の海は、眩しい光を一身に受けて輝き。

    不透明の海は、深い闇の奥に、大切な宝物を静かに抱いている。

    そして半透明の海は、光と影をやさしく溶かし合わせながら、今日も穏やかに波を返している。

    霧の向こうからは、白い帆がひとつ。

    また、ひとつ。

    新しい旅は、いつも少しだけ見えない場所から始まるのだった。




    お題:半透明の海
    下記の企画に参加させていただきました。



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