
journal #01
ともかく綺麗な字で書くことが大切だ。わたしは字が汚い。やさしい綺麗な字を書くことも修行の一つだと思っている。
俳人は大変だ。俳句を創ることも、綺麗な書を書くことも出来なければならない。わたしは自由律俳句を創っているが、ぐうたら俳句だ。ぼうっとした句だ。今はまだそれでいいと思う。それでもいつか「分け入っても分け入っても青い山 山頭火」「咳をしてもひとり 放哉」のような句を創り成したいと願う。
井泉水が説いたことは「精神修養即俳句」だったのかも知れない。井泉水は宗教と力のある句の違いを述べて、技術のある言葉の連なりこそ自由律俳句であると書いていた。
精神修養として在家で出来ることといえば掃除に坐禅、そうして断捨離である。ここに今現在、妻への看病が加えられている。
わたしは脱落者だけれど(或いは病人だけれど)だからこそひとから仕事を頂いて賃金を得たいと考える。しかしそれは妻の看病が済んで、デイケアでリハビリが済んだあとだ。
わたしを成すもののことを考える。浪費をせず、物を少なに、大切に目の前の人間を、妻を大切にただやるべきことをする。
悟るということはただ平然と生きているということであった 正岡子規
という言葉を噛みしめながら一生懸命、綺麗な字につとめ書いている。