
矛盾を抱えられる人ほど強い
良い問いに、明確な答えはない。
私たちは普段、
「問題がある」
「解決する」
「終わり」
という流れで物事を考えている。
問題を解く。
また次の問題を解く。
ゲームのステージをクリアするように。
それはそれで、とても大切な能力だ。
けれど、
本当に重要な問いは、
そもそも簡単には解けない。
自由と平等。
生と死。
個と全体。
愛と自立。
安全と挑戦。
どちらも本物だ。
どちらも大切だ。
だからこそ、
どちらかを完全に選ぶことができない。
そして、それらは
まだ解けていない問題ではない。
構造的に、
永遠に解けない問いなのだと思う。
私たちは、
それを矛盾と呼ぶ。
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では、
解けない矛盾は、
どう扱えばいいのだろう。
多くの場合、
とりあえず棚上げする。
あるいは、
どちらかを切り捨てる。
そんな方法が選ばれる。
自由を優先する。
平等を優先する。
個を優先する。
全体を優先する。
どちらかを選ぶことで、
一時的にはスッキリする。
けれど本質的には、
何も終わっていない。
なぜなら、
切り捨てた側もまた、
本物だからだ。
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僕は、矛盾にはもうひとつの扱い方があると思っている。
矛盾とは、
二つの本物がぶつかっている場所だ。
そして、
その摩擦がエネルギーを生む。
矛盾を消そうとするのではなく、
燃料として扱う。
答えを急ぐのではなく、
問いと共に生きる。
その姿勢の中から、創造が生まれる。
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人は、
答えが出ないものに出会うと不安になる。
だから、
どちらかを正しいことにしたくなる。
科学か宗教か。
感覚か論理か。
身体か精神か。
けれど本当に重要な問いほど、
片方だけでは成立しない。
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科学は語る。
どんな理論にも、
説明しきれない外縁があると。
宗教は説く。
人間の言葉や論理を超えた何かがあると。
言葉は違う。
入口も違う。
けれど、
どちらも、
自分たちの地図では描ききれない領域があることを認めている。
科学ではそれを不完全性と呼び、
宗教では超越と呼ぶ。
僕は、
それらは同じ山を、
別の登山道(方向)から見ているようなものだと思っている。
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これは身体の世界でも同じだ。
呼吸を扱う人と、
呼吸になる人がいる。
施術で言えば、
ファシアを操作しようとしている人と、
ファシアの応答の中に自分も含まれている人がいる。
最初は、
私が扱う。
私が操作する。
私が変える。
という感覚だ。
でも、
深く関わり続けると、
少しずつ変化が起きる。
扱っているはずだったものが、
自分自身を変え始める。
呼吸を学んでいたはずなのに、
いつの間にか呼吸に学ばされている。
身体を観察していたはずなのに、
いつの間にか身体に観察されている。
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そしてある地点から、
私がこれを使っているのか、
これが私を通じて動いているのか、
その境界が曖昧になる。
扱うことと、
成ること。
その境界が消え始める。
ここに、
身体の面白さがある。
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これからの時代は、
ますます多くの問題を解けるようになる。
AIも進化する。
科学も進化する。
技術も進化する。
解けることは、
確実に増えていく。
だからこそ逆に、
解けない問いの存在感は大きくなる。
答えのない問い。
どちらも正しい問い。
切り捨てられない問い。
そうしたものと、
共に生きる力が必要になる。
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問いを見つけて答えを出す時代から、
問いの中で豊かに揺れ続ける時代へ。
僕は、
そんな変化がもう始まっているように感じている。
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身体はずっと前から、
矛盾を燃料にして動いている。
安定しながら動く。
力を抜きながら力を出す。
緩みながら支える。
個々の細胞として生きながら、
全体としても生きている。
身体は矛盾を消していない。
矛盾を抱えたまま、
統合しながら存在している。
だから僕は思う。
次の時代を案内する人とは、
答えをたくさん持っている人ではない。
解けない矛盾を抱えたまま、
そのエネルギーで歩き続けられる人なのだと。
矛盾は欠陥ではない。
生きているものの中にある、
静かな動力なのだと思う。
ここまで書いてきたことは、
知識として理解するだけではなく、
実際に身体で感じてみることで、
見え方が変わることがあります。
僕は普段、
呼吸や身体の感覚を通して、
自分の身体を観察し、
自分で気づいていくための
オンラインワークを行っています。
記事を読んで、
「一度、自分の身体でも確かめてみたい。」
そう感じた方は、
noteホーム画面右上のメール(封筒マーク)から
ご連絡ください。
オンラインワークについてご案内します。
必要になったときに、
思い出していただければと思います。