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いちばん遠い旅は、冷蔵庫の奥にある

    冷蔵庫には、距離がある。

    扉のポケットは駅前だ。牛乳、麦茶、マヨネーズ。毎日のように人が行き交い、置かれている物の顔ぶれもよく知っている。

    棚の手前は住宅街。卵、豆腐、作り置きのおかず。だいたいの住民は把握しているけれど、ときどき見慣れないタッパーが越してくる。

    そして、棚のいちばん奥。

    そこは秘境である。

    腕を伸ばさなければ届かず、手前の物をどかさなければ姿も見えない。照明の光さえ十分に届かないその場所で、名もなき小瓶たちが静かに暮らしている。

    いつ買ったのかわからない粒マスタード。

    一度しか使っていない外国の調味料。

    袋の口を輪ゴムで留めた、何かの粉。

    料理の途中で「あれがあったはず」と思い出すのに、見つからない。仕方なく新しい物を買う。そして数日後、冷蔵庫の奥から古いほうが発見される。

    冷蔵庫には、同じ物が二つあるのではない。

    過去の自分と現在の自分が、それぞれ一本ずつ買っているのだ。

    奥から出てきた小瓶を見ると、その頃の気分まで少しだけ戻ってくる。

    「今年こそ料理の幅を広げたい」

    「これを使えば、お店の味になるかもしれない」

    「週末には、ちゃんとした料理を作ろう」

    小瓶の中に入っていたのは調味料だけではない。買った日の、妙に前向きな決意まで保存されていた。

    ただし、賞味期限は決意より先に切れる。

    冷蔵庫の奥を片づける作業は、自分が守れなかった約束を一つずつ取り出す作業にも似ている。

    これは一回しか使わなかった。

    こちらは存在そのものを忘れていた。

    これは、なぜ買ったのかさえ思い出せない。

    少し情けなくなるけれど、責めるほどのことでもない。

    買った日の自分は、たぶん本気だったのだ。

    新しい味を知りたかった。いつもと違う料理を作りたかった。暮らしをほんの少し面白くしたかった。

    結果として小瓶は眠りについたけれど、その好奇心まで無駄だったとは思わない。

    冷蔵庫の奥には、失敗した買い物ではなく、実行されなかった小さな冒険が並んでいる。

    そう考えると、期限の切れた調味料にも、少しだけやさしくなれる。

    もちろん、やさしくなったからといって食べるわけではない。

    そこはきちんと処分する。

    そして空いた場所を拭きながら、「次は使い切れる量を買おう」と決める。

    おそらく未来の自分も、同じ場所で同じ決意を発見するのだろう。

    冷蔵庫の奥は、家の中でいちばん近くて、いちばん遠い。

    腕一本分の距離なのに、たどり着くまでに数か月かかる。

    だから今日、扉を開けたついでに、一度だけ奥をのぞいてみてほしい。

    そこには忘れていた食品と一緒に、少し張り切っていた頃の自分がいる。

    次の文字は「る」です。

    企画:
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    https://note.com/47_box/n/nf42dd8e3a4f3

     
     
    怖い話や都市伝説、雑学、ライフハック、ちょっとした物語、おすすめしたいものなど。日常で気になったことや、ふと思いついたことを自由に記事にしています。読んだあと、少しだけ世界が面白く見えるようなnoteを目指しています。

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