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自分を肉屋だと勘違いして肉屋を応援する豚は、本当に自分が豚であることを認知出来ていないのか

    どうだろう、これは面白い比喩だと思った。そもそも、本当に商品として売られている肉が、これは私の肉であると豚は認知出来るのだろうか。

    まず、豚なりに思考をしたのだ。肉屋に並べられている肉が、これは自分の肉だと、メタ認知は出来なかったかも知れない。
    しかし、これは思考のプロセスの過程なのではないか。
    肉屋に並べられている肉が、自分の肉であると豚が気付く前に、豚は自分が肉屋かもしれないと思ったのかもしれない。こんなに沢山肉が並んでる場所に立てているのだ、ということは私は肉屋なのかもしれないと。

    さすれば、これはメタ認知の1歩手前まで出来ている。肉屋に並べられてる肉を見て、ただ美味しそうであると感じるだけでなく、肉屋に並べられている肉を私が見ているということは、私は肉屋ではないかと、豚は思ったのである。

    ここまで疑えたのなら、豚はいずれ真実に気付くだろう。
    肉屋に並べられている肉は、僕たちの肉であり、僕は豚だったと豚はメタ認知を完全に出来るかもしれない。

    つまり、市井の一介の人間が、これは国が困っていることである、ならばこの視線で物事を考えるのは国のためになる、と考えるのはそこまで悪いことでは無いだろう。
    その市民はいずれ真実に辿り着くかも知らないし、そうでないかもしれない。
    誰もが何かしらの認知のプロセスの中にいて、常に自分の思考の枠組みを離れて考えることができる訳ではない。
    メタ認知をしようと試みるメタ認知こそ、最終的にはメタ認知に繋がるのだと私は思う。

    つまり、豚はこのような認知のプロセスを行っている。

    第1段階:客体としての肉の認識
    「並んでいる肉がある」という事実の認識。

    第2段階:状況からの自己定義(誤った推論)
    「私がこの場所にいる」という状況から、「この場所にいる私は、この場所の主(肉屋)であるはずだ」という論理的飛躍。

    第3段階:メタ認知への萌芽
    「私は何者か?」という問いを、周囲の環境(肉が並んでいる)から導き出そうとする姿勢。

    この3段階目まで豚がプロセスを経てこれるかどうかは、豚が更に自分を疑えるかどうかにかかっているだろう。

     
     
    エッセイや詩、小説を書いています。 どれかひとつでもお気に召すものがあれば幸いです。 ときどき、文芸や政治、経済についても書きます。

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