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インテリジェンス・ハラスメント

    ― もう二度と、繰り返さないために


    もう二度と、あんな思いはしたくない。そして、誰にもさせたくない。

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    ふとした瞬間に蘇る、苦い記憶がある。東京オリンピックの頃、当時の職場で直面した理不尽な空気だ。

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    そこは、仕事の成果や合理的な提案よりも、「休日に野球やゴルフへ参加しているかどうか」で人の評価が決まる場所だった。私自身、サッカーや陸上トラック競技の指導に携わっており、感覚や根性論に頼らないよう、個人的にリスクアセスメントや安全衛生システム、環境づくりについて勉強を重ねて実践していた。決してスポーツや結束そのものを否定していたわけではない。


    ​だが、あの場で求められていたのは科学的な知見や客観的な安全性ではなく、内輪の空気に従順に従う「忖度」だけだった。その輪に入らない平社員だった私は、正当な理由もなくボーナスを削られた。理不尽さに声を上げようとしても、組織だけでなく地域社会でさえ「空気を読まない者」として意見を否定され、心ない言葉を投げつけられた。知性や合理性よりも、感情的な同調圧力が勝る社会。あのときの無力感は、今も胸の奥に残っている。


    ​時代は変わり、今や「ハラスメント対策」は社会の共通言語になった。コンプライアンスが叫ばれ、AIを活用してハラスメントを検知・抑止しようという試みも始まっている。

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    しかし、本当に社会は健全になったのだろうか。


    表面的な言葉狩りが進む一方で、「正当な意見表明」と「カスタマーハラスメント」の境界線は曖昧なままだ。理不尽を訴えようとする市民の声が「カスハラ」として封殺される危うさはないか。あるいは、組織の中枢が下した判断や不透明な予算の使途を、市民や現場が正しく検証できているだろうか。形骸化したルールと監視の目が強まる一方で、本質的な理不尽さは形を変えて温存されているように思えてならない。

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    これからの社会に必要なのは、形式的な対策ではないはずだ。


    ​能力や合理的な意見が真っ当に評価され、異なる意見を持つ人間を排除しないこと。


    AIの判断を鵜呑みにせず、人間がその妥当性を検証できる透明性を持つこと。


    そして、同調圧力で知性や異論をすり潰す「インテリジェンス・ハラスメント」を未然に防ぐ共通認識を持つこと。


    ​いま、日本でのSNSやAIの使い方を見ていると、どこか思考を放棄し、多数派の空気や都合のいい情報に流されているような違和感を覚える。ツールが進化しても、使う側の精神が「かつての体育会系の同調圧力」のままなら、私たちはまた形を変えた理不尽を生み出してしまうのではないか。


    ​誤解してほしくないのは、単に「ボーナスを減らされたこと」だけに執着しているのではない、ということだ。現場の業務でも、緻密な資料作成も本質を見つめ実行し、周囲の仕事まで押し付けられて泥をかぶっていた。それだけの貢献をしていたにもかかわらず、従順でないというだけで受けた仕打ちだったのだ。

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    技術がどれだけ進歩しても、最後に問われるのは「真摯な仕事と異なる意見に耳を傾ける知性」があるかどうかだ。


    過去の痛みをただの苦い記憶で終わらせず、次の世代が息苦しさを感じない社会にするために。これから私たちは、この道具と社会をどう扱っていくべきなのだろうか。


    スポーツは一人ではできない。

    それなのに、同じスポーツをしなかった僕は、あの頃「協調性がない」と言われていた。

    協調性とは、同じものを好きになることなのだろうか。

    それとも、異なる考えを持つ人間同士が、互いを尊重することなのだろうか。

    全ては、特定のものを守るための言葉だったのだろうか。





     
     
    「Benevoligence (ベネボリジェンス)」 ​人間が持つ 「優しさ(Benevolence)」と、 AIや論理が持つ 「知性(Intelligence)」。 この二つを繋げたとき、自分が本当に伝えたかった意味が鮮明になった。

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