
ジブリ映画の中にいる自分
宮崎駿は、旧約聖書から「風の谷のナウシカ」を制作している。
世の中から、新しいものを取り入れて、新しいものを生み出している。
全ての活動や表現は、自分に無い世界から入った全てが、化学変化して自分から出てくるべきだと思う。
娘から見せさせられアニメを見ると、アニメの中だけでアニメを制作していると感じる。
アニメで育った監督が、今まで見て来て感動したアニメの要素を、所々に使ってるんだろうなぁと感じるシーンがよくある。
ジブリやディズニー映画や庵野作品や押井作品のパッチワークのようである。
みんなが大好きジブリの映画。
私にとっての最高傑作は「風の谷のナウシカ」。
SFでありながら、旧約聖書から中世に至る現実の世界観で繰り広げられ、子供心にリアルな衝撃を受け感じた。
大人になってから様々な事を知る中で、衝撃の真相が理解していった。
「ナウシカ」の、過酷な環境における先住民と侵略民の物語は、旧約聖書のようだ。
創世記の、ソドムとともに天の火によって焼き滅ぼす巨神兵なのか、オウムの大洪水による風の谷の方舟か。
そしてナウシカは、ジャンヌダルクのように聖なる衝動で突き動く。
イエスのように、人間の業で生み出した腐海の毒と、それを浄化するオウムの怒りを背負い、人間の原罪を背負い死ぬ。
そしてイエスのように復活する、そんな福音の物語である。
「風の谷のナウシカ」の解説は見たことない。
宮崎駿の本音のインタビューなども知らない。
しかし、制作者が世の中のものを取り入れて、自分なりに全てを化学変化させているのは伝わってくる。
アニメで育った人がアニメを作っても面白くない。
普遍的な世界を独自変化させるから、普遍性ある新しいものが生まれる。
好きなジャンルの世界からだけでは、新しい世界は生まれない。
人に伝わらないのは、普遍性なき自分の感覚だからだろう。
自分を表現すると言っても、大した自分じゃなければ自分からは何も出てこない。
自分なんてよくわからないのは、大して入ってない自分かもしれない。
たくさんたくさんたくさん入れて、もっともっともっと考えて、化学変化しなければ何も新しい自分なんてならない。
制作者でもスピリチュアルでも、一般的な社会人でも同じことだと思う。
表現すべき自分は、まだまだ未知なる自分を作り出している前に語るには、まだ早いくらいかもしれない。