
時間をかける少女 アマノ文筆クラブ
その女性は、どう見ても僕の祖母と同じくらいの年齢に見えた。
白くなった髪。窪んだ目元。痩せ細った身体と、そこに深く刻まれた皺。
けれど、僕らはまだ三十歳だった。
僕は彼女の乗る車椅子のハンドルを握り、冷たい風が吹き抜ける公園を進んでいた。車輪が乾いた落ち葉を踏みしめるカサカサという軽い音が、静かな園内に響く。
「ねえ。今年も桜、咲くかな」
ほのかに冬の匂いを含んだ風に首をすくめ、膝の膝掛けをキュッと握り直しながら彼女が呟いた。
「まだ少し早いよ。今はまだ秋が終わったばかりだ」
「じゃあ、来年だね」
振り返ることなく空を仰ぎ、彼女はクスクスと笑った。
高校三年生の夏、僕らは付き合い始めた。彼女はチアリーディング部のフライヤーで、僕はそれを下で支えるベースだった。
小さくて軽やかだった彼女を、僕は練習のたびに何度も空へと持ち上げた。真夏の強い日差しと汗の匂いの中、見上げる彼女の笑顔はいつも眩しかった。
「もっと高く!」
「無茶言うなよ、バランス崩すぞ」
「大丈夫、君が支えてくれるでしょ? だって、高いところへ行くと空が近くなるから」
だが、そんな眩しい夏の大会が終わった頃、彼女の身体に異変が見つかった。
爪が割れやすくなり、髪が抜け落ち、いくつもの病院を回った。やがて無機質な診察室で、医師は聞き慣れない病名を告げた。 ウェルナー症候群。人よりも何倍も早く老いていく病だった。
二人で大学に進学して、チアも続けて、いろんな場所へ行こう。そんな当たり前にあると信じていた未来の地図が、一瞬にして冷たい現実に塗り潰されてしまった。言葉を失い、ただ互いの震える手を握りしめることしかできなかった。
それでも、僕らの時間は止まらなかった。
二十代を迎え、少しずつ、けれど確実に進行していく病と向き合いながら、僕らは共に暮らした。白髪が増え、皮膚が硬くなり、歩く速度が遅くなっていく彼女の手を、僕は片時も離さなかった。
彼女が二十七歳になった年、僕らは小さな式を挙げた。
白いドレスに身を包んだ彼女は、車椅子に乗っていた。昔のように抱き上げることはできなかった。けれど、あの日空高く舞っていた彼女の笑顔と同じくらい綺麗だった。
自力で立ち上がることができない彼女のために、僕は深く腰を落とし、車椅子の高さに合わせてそっとかがんだ。
「誓います」
小さく震える彼女の唇に、静かに重ねた誓いのキス。僕の指輪と彼女の指輪がカチリと触れ合い、僕らは正式に夫婦になった。
「私、何をするにも時間がかかるようになったね。歩くのも、ご飯を食べるのも、あなたのお嫁さんになるのも」
「じゃあ、これからも全部ゆっくりにしよう。二人で歩くなら、二人の速さで進むのが一番いい」
僕がそう答えると、彼女は皺の寄った目元を歪め、少しだけ泣いた。
硬く強張(こわば)り、上手く動かなくなった指先で、彼女は僕のノートにゆっくりと『ありがとう』と書き残してくれた。一文字書くのにも息を整えながら、それでも自分の手で気持ちを伝えようとする彼女は、いつだって誰より強くて、綺麗だった。
やがて彼女の足は完全に力を失い、僕が日常的に車椅子を押すようになった。昔、僕は彼女を空高く持ち上げた。今は地上で一緒に、一歩一歩を確かめるように進んでいる。そのどちらの時間も、僕にとっては等しく愛おしいものだった。
三十代を迎えて間もなく、妻となった彼女は眠るように息を引き取った。
彼女がいなくなってから、僕は一冊のノートを開き、日記を書き始めた。彼女に見せるはずだった未来を、言葉で残すために。
『今日はあの公園の桜が咲いたよ』
『君が好きだった駅前の喫茶店がなくなったよ』
『新しい元号になって、スマートフォンという箱を誰もが覗き込む時代になった』
『僕の髪にも、白いものが混ざりはじめたよ』
ノートが何冊も積み重なっていく間に、世界は目まぐるしいスピードで変化していった。人々は効率や時短を追い求め、立ち止まることなく走り去っていく。
そんな流れる世界の中で、僕だけは彼女との約束を守るように、一日一日を、ゆっくりと噛みしめるように生きた。
仕事を全うし、白髪は増え、背中は丸くなり、僕自身の身体もかつての彼女のように小さくなっていった。それでも毎年、桜が咲く季節になるとあの公園を訪れ、夜にはノートを開いて妻に報告し続けた。
そして、果てしなく長い年月が過ぎた。
最後の日記を書き終え、静かにペンを置いた僕は、ベッドの上でそっと目を閉じた。身体から重力が消えていくような、不思議な浮遊感があった。
光の中に佇んでいたのは、あの日と同じ、色あせない彼女だった。 白髪も皺もなく、鮮やかなチアの衣装を着て、太陽のような笑顔で僕に手を差し出している。
「ずいぶん時間をかけたね」
呆れたような、でも愛おしさに満ちた声で彼女が言った。
見上げると、車椅子の高さから見下ろしていたあの日のように、彼女が僕を覗き込んでいた。すっかり小さくなり、皺だらけになった僕の手に、彼女の温かく柔らかい手が重ねられる。
「君に話したいことが、たくさん増えたから」
僕が掠れた声で答えると、彼女はあの夏の日と同じ、眩しい笑顔を浮かべた。
「ふふ、じゃあ、全部聞かなくちゃね。……さあ、続きをしようか」
重ねられた小さな手を、僕は今度こそ離さないように握り返した。
僕らは並んで歩き始めた。 どこまでも広がる青空の下を、今度は時間を気にせずに。
企画への参加あいさつ
甘野充さん、そしてアマノ文筆クラブの皆さん、こんにちは。
今週の「アマノ文筆クラブ第86回」に参加させていただきます。
今回のお題「時間をかける少女」というテーマから、効率やスピードばかりが求められる現代にあって、二人だけの歩幅で歩む時間の愛おしさと、一生をかけて愛し続ける「時間の重み」についての物語を描きました。
企画主の甘野充さんの募集記事はこちらです。
どうぞよろしくお願いいたします。