
一日だけの空白
壊したくない日常がある。
見慣れた街を一年半使い込んだウォーキングシューズで歩き、花屋の花で季節を感じる。
おひとり様になりたくて、近くのカフェを転々とする。
同じ店ばかりを利用しないのは
「あの人、また来てる。」
そう思われたくないからだ。
カフェでノートパソコンを開けて好きなことを表現するのに憧れていたはずなのに、いつの間にか誰かに気づかれるのではないかと不安すら感じるようになっている。
今朝はパンを焼かなかった。
いや、焼けなかった。
就寝時刻は遅くなかったのに、アップルウォッチの睡眠アプリが危険信号を出していた。
中途覚醒が多かったらしい。
果たすべき役割があるのに、それを完了しても自分で認めるだけ。
相変わらず私の朝は、大きな子どもになってしまった彼とのいつもの会話と手つなぎから始まり、おでこに手を当て、熱がないかだけを確認している。
私は今の生活を「幸せだ」と胸を張って言えるし、この日常こそが私の愛する居場所だ。
ただ、完璧に見える日常の「隙」と「間」に、ふっと冷たい風が吹き抜ける瞬間がある。
誰かのための〇〇として、役割を完璧に演じ切ったあとに残る、渇き。
直接触れられないことではない。
そこになにかあったはずだと信じている隙間の空白を埋めるように、画面の向こうへ言葉を投げてしまうのがこの世界での私だ。
文章だけでつながるこの世界は、時に現実世界への案内が訪れる。
1時間弱あれば憧れの書き手たちに会える集い。
憧れのあの人から回収されるのは、文章だけではなく私の心だ。
回収されることによって世界が広がり、やり取りをする人が増えていく。
この文章のやり取りをする人たちの言葉に恋焦がれ、通知ばかりを気にする。
「この世界を飛び出してみてもいいんじゃない。」
この声はもしかしたら、悪魔のささやきだろうか。
「もしも、たった一日だけ、本当に会えるとしたら?」
スマホという薄いガラス越しに織り上げる、一日限りの完璧な空想かそれとも妄想か。
長居しづらい喧騒のカフェで15インチもある大きなノートパソコンを開いている私は決してオシャレとは程遠い。
ここからの妄想ぐらい、40代であることを忘れてもいいんじゃないか。
アラフィフなんて言葉は鞄の中に入っている塩谷舞さんの本のしおりにでもしておくことにして。
重い音とともに、新幹線のドアが静かに閉まる。
窓越しに触れる指がスマホの画面を想起させて夢の終わりを告げる。
昔ほど近づけなくなっているホームと車両のガードが、さらに厚いガラスの一枚向こうへと遠ざける。
手を振るわけでもない。
これはただの別れ。
加速する車両のスピードが一瞬で世界を切り離し、デッキからシートへと足を向ける。
リクライニングを少し倒し、息を吐き出す。
車窓を流れていく見慣れない景色を眺めながら、外側と内側の境界線を戻していく。
まだ残像が消えない。
――あれは、本当に現実だったのだろうか。
それとも、私の深い妄想だったのだろうか。
始まりは、あの小さな待ち合わせ。
街のランドマーク。
あまり知られていないシェアキッチンを借りる。
ガラス戸を押すとカウベルが低く鳴り、冷たい水を一口飲んだ私の前に、あなたが現れる。
その日は一緒にタコスパーティーをしよう。
タコスなんて作ったことない。
スーパーで売っている完成したトルティーヤにミートソースを包んで食べたのがタコスだと思っている。
でも、せっかく一緒に作るんだったら、トルティーヤから焼きたい。
パンしか焼いたことがないから一生懸命にレシピを調べる。
せっかくの機会だから失敗したくない。
パンよりも時間はかからないみたいで安心する。
焼いてすぐに半分折りさえすれば、少し外に出かけることだってできそう。
夕飯のタコスパーティーまでには時間があるから、ランチをする。
手をつなぐわけでもなく並んで歩き、イタリアンの店を探す。
テーブルには椅子がふたつ。
私はあらかじめ質問を用意していたはずなのに、なかなか口が言うことをきかない。 緊張する私を見て、あなたが困ったように、でも真面目に言葉を紡ぐ。
「今日は、晴れて良かった。」
そこには過度な触れ合いも、甘い言葉もない。
ただ、画面越しに重ねてきた言葉の行間に隠していた温度を、同じ空気の中で確かめ合うだけの時間。
大人の分別と隙を探す私のちぐはぐな心や重たさも、あなたは全部知っていて、向かいの席で静かに笑っていた。
タコスを一緒に食べる。その後も一緒に過ごす・・・
トンネルに入り、車内がふっと暗くなる。
車窓に映る自分の顔を見て、ハッと息をのむ。
鞄の中に手を入れると、15インチのノートパソコンの冷たい感触と、塩谷舞さんの本の肌ざわり。 ・・・そうだ。私はあの喧騒のカフェで、画面に向かってずっとキーボードを叩いていたはずだ。
電車の揺れも、ホームで閉まったドアの音も、あなたと過ごしたあの濃密な時間も。 すべては、冷めきったラテの横で描いた、完璧すぎるほどの空想だったのかもしれない。
それとも、本当に私はあのドアの向こうから帰ってきたのだろうか。
指先から紡ぎ出したあの時間は、間違いなく私の心に体温を宿した。
書くことでしか辿り着けない心の深い隙と間。
書くことでしか癒えない渇きを感じているのは私だけではないはず。
今日あったことは、私が私を救うために必要だった真実だ。
夢か現実か、その境目が分からなくなるほどの愛おしい時間。
最寄り駅に着けば、いつもの使い込んだウォーキングシューズで踏みしめる現実が待っている。
大きな子どものおでこに触れ、食べるかわからない夕飯の支度をし、「完璧な日常」を作り上げる自分を愛おしみながら生きていく。
スマホの薄いガラスが光った。
けれど画面を伏せれば、そこにはもう、いつもの夜しか残っていなかった。
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