
少しだけ自分のことを…|スキンヘッドが「僧侶受付」の案内板になった日|人は見た目か、AIも見た目か
今日も温泉に行くことができません。介護が待っています。
どうやら私の木曜シリーズは、温泉へ行けないと過去へ遡る仕組みになっているようです。
温泉へ行けば、白目を剥く先輩が現れる。
温泉へ行けなければ、私の黒歴史が掘り起こされる。
どちらに転んでも、平穏無事には終わりません。
ということで今回は、今から25年以上前のお話をしようと思います。
かなり後ろ向きな育成会長でした
当時、私は住んでいた地域で育成会長をしていました。
こう書くと、
「地域の子どもたちのために、自ら進んで会長を引き受けた立派な人」
のように聞こえるかもしれません。
先に申し上げておきます。
まったく違います。
子どもの数が少なく、役員を引き受けられる家庭も限られていたため、持ち回りで私のところへ順番が回ってきただけです。
かなり後ろ向きな育成会長でした(笑)
とはいえ、引き受けた以上は何もしないわけにもいきません。
地域の行事に参加したり、自治会の方々と打ち合わせをしたり、子どもたちに関係する催しのお手伝いをしたりしていました。
自治会と育成会は非常に仲が良く、地域にある大きなお寺の住職とも日頃からお付き合いがありました。
そんなある日、自治会から連絡が入りました。
そのお寺の坊守、住職の奥さまがお亡くなりになったという知らせでした。
悲しむ間もなく、自治会長から葬儀の準備や当日のお手伝いについて、育成会にも協力してほしいと要請がありました。
もちろん、通常のお葬式に参列した経験はあります。
しかし、大きなお寺で行われる葬儀のお手伝いなど、経験したことがありません。
何をすればいいのかも分からず、少々ハラハラしながら打ち合わせに向かったことを覚えています。
私は置物になることを選びました
打ち合わせへ行ってみると、まず驚いたのが葬儀の規模でした。
参列する方の人数が、通常の葬儀とはまるで違うというのです。
しかも、そのお寺は非常に大きいのですが、そこへ向かう道が狭く、初めて来る方には少々分かりにくい場所にありました。
お寺の敷地だけでは、すべての車を受け入れることができません。
かなり離れた場所に駐車場を確保する。
駐車場からお寺までの案内図を作る。
途中に案内係を配置する。
受付の場所を決める。
雨が降った場合の参列者の動線を考える。
自治会の長老たちを中心に、
「あそこに車を入れたら出られなくなる」
「いや、こちら側から一方通行にすればいい」
「受付は境内へ入る前の方がいい」
「それでは雨が降ったときに困る」
と、喧々諤々の話し合いが続いていました。
私は何も分かりません。
こういうとき、分からない人間が余計なことを言うと、話がさらに分からなくなります。
そこで私は、ひたすら置物のように隅へ座り、気配を消すことにしました。
育成会長ではありますが、機能としては置物です。
たまに話を振られると、
「なるほど」
「確かに」
「それがよろしいかと思います」
と答える。
何が「なるほど」で、何が「確かに」なのかは、ほとんど理解していませんでした(笑)

最大の問題は、天気でした
準備を進める中で、最大の難関となったのが天気でした。
天気予報によれば、葬儀当日は雨。
しかも、かなり強く降る可能性があるとのことでした。
離れた駐車場から、そこそこの距離を歩いていただかなければなりません。
道は狭い。
場所も分かりにくい。
参列者は多い。
そのうえ、足元まで悪くなる。
葬儀当日。
予報は見事に当たりました。
朝から雨です。
それも、
「少し降っていますね」
という可愛らしい雨ではありません。
傘を差していても、足元や肩が濡れてしまうほどの、かなり強い雨でした。
空は暗く、視界も良くありません。
次々と到着する車。
傘を差しながら駐車場から歩いてくる参列者。
案内に走り回る自治会の方々。
慌ただしい状況の中で、葬儀の準備が始まりました。
ありがたかったのは、自治会の長老たちがすべての采配を振るってくれたことです。
右を向けと言われれば右を向く。
左を向けと言われれば左を向く。
机を運べと言われれば机を運ぶ。
分からないことがあれば聞けばいい。
こういうとき、経験のある方の指示は本当に頼りになります。
私の仕事は、とにかく身体を動かすことでした。
受付は三つありました
私が仰せつかった持ち場は、受付でした。
昔の運動会で役員席に使われていたような、大きなテントを設営し、その中に机と椅子を並べます。
通常の葬儀と少し違ったのは、受付が三つに分かれていたことです。
一つ目は、一般の参列者用。
二つ目は、町内関係者用。
そして三つ目が、僧侶用です。
大きなお寺の坊守の葬儀ですから、各地のお寺から大勢の僧侶が参列します。
そのため、僧侶専用の受付が設けられていました。
私は当然、町内関係者です。
したがって、配置されたのは「町内用」の受付でした。
長老の一人からは、
「T君は商売をやっているから、お金の勘定も慣れているだろう。ここを頼むね」
と言われました。
こういう理由で頼られると、少しだけ背筋が伸びます。
任されたからには、きちんとやらなければなりません。
受付の机に座り、筆記用具や名簿を確認し、準備万端。
やがて、参列者が続々とやって来ました。
降りしきる雨の中を、大勢の人が傘を差して歩いてきます。
傘が並んでいるため、実際の人数以上に多く見えました。
私は町内の方々を受付へ案内し、記帳をお願いし、香典を受け取っていました。
何人かの受付を終えた頃です。
テントの中に、何やら妙な空気が流れ始めました。
「T君、君はそこにいてはダメだよ」
自治会の長老たちが、少し離れた場所でア~ダコ~ダと話しています。
困っているような、揉めているような、何とも落ち着かない雰囲気です。
すると突然、一人の長老が私のところへやって来て言いました。
「T君、君はちょっと、そこにいてはダメだよ」
ハイ?
意味が分かりません。
そこに座るよう指示したのは、あなた方ではありませんか。
しかも、すでに何人かの受付を済ませています。
私は何か間違えたのでしょうか。
香典の受け取り方を間違えたのか。
記帳の案内に失礼があったのか。
お金の勘定を間違えたのか。
理由も分からないまま「そこにいてはダメ」と言われ、少々腹が立ちました。
「私、何か間違えましたか?」
そう尋ねると、普段は軽口を叩き合う長老が、なぜか言いにくそうに口ごもっています。
「いや、そうじゃないんだけどさ……」
「では、何か粗相がありましたか?」
「いや、粗相というわけじゃないんだよ」
「それなら、どういうことですか?」
長老は私の顔を見て、少し視線を上へ動かしました。
そして、歯切れの悪い口調で言いました。
「アタマがさ……」
アタマ?
私の頭が、どうしたというのでしょう。
私の頭には、いろいろな前科があります
実は私、昔から頭を使った芸をすることがありました。
ここでいう「頭を使う」とは、知恵を絞るという意味ではありません。
文字どおり、頭そのものを使います。
お酒の席で、酔ったふりをして頭に落書きをする。
頭に顔を描いて人を笑わせる。
そんなくだらないことを、ウケのためにやっていました。
私は酒に強いため、実際にはそれほど酔っていないのですが、周囲を笑わせるためなら身体を張ってしまいます。
一度、油性マジックで頭に絵を描き、落とすのにエライ苦労をしたこともあります(翌日、落ちなくて休んだ前科あり)。
若気の至りとは恐ろしいものです。
しかし、どれだけ私が不埒な人間でも、大切な葬儀の前日に大酒を飲み、頭へ落書きをするほどバカではありません。
前の晩に何か書いた覚えもない。
書き残しもないはずです。
私は長老に聞き返しました。
「アタマが、何ですか?」
長老は、また言います。
「だからさ、アタマだよ。アタマ……」
まったく意味が分かりません。
私は少々強い口調になりました。
「意味分かんねっす!」
すると長老は、困ったような顔をしながら、私の後ろにできている行列を指差しました。
「T君の受付は、町内用だよね?」
「そうです。言われたとおり、町内用の受付をしています」
「では、並んでいる人たちを見てみなよ」
私は自分の受付に並んでいる方々を、あらためて確認しました。
……。
…… ……。
アッ。
町内の方ではありません。
僧侶です。
私の受付に、お坊さんがズラ~ッと並んでいたのです。
ズラ~ッと。
念のため申し上げます。
私は被っていません。
私のアタマが案内標識になっていました
私は、その頃にはすでに今と同じスキンヘッドでした。
降りしきる雨。
視界を遮る傘。
慣れないお寺。
三つ並んだ受付テント。
そして、遠くからでもよく見える私のスキンヘッド。
それらの条件が、見事に一つへまとまってしまったようです。
参列した僧侶の方々から見れば、
「お寺の葬儀」
「受付にいる」
「頭を剃っている」
この三つが揃っています。
ならば、そこが僧侶受付だと考えても不思議ではありません。
誰も悪くありません。
私も悪くありません。
僧侶の方々も悪くありません。
天気も悪いとはいえ、雨に悪意はありません。
ただ、いくつもの条件が重なった結果、
私のアタマが「僧侶はこちらです」という案内標識になっていたのです。
自治会の長老たちは、それに気づきました。
このまま私を町内受付をやらせておけば、僧侶の方々が次々とこちらへ並んでしまう。
本来の僧侶受付には誰も並ばず、町内受付だけが大混雑する。
これは即座に配置転換しなければ、大きな混乱になります。
そこで長老たちは、賢明な判断を下しました。
案内標識の撤去です。
私は受付から外され、別の場所へ移動となりました。
仕事ぶりに問題があったのではありません。
アタマの性能が良すぎたのです。
視認性が高く、意味まで伝わってしまう。
案内板としては、かなり優秀だったのではないでしょうか。
ただし、表示内容が間違っていました(笑)
どうやら私は「和尚先輩」だったようです
人は見た目ではない。
そう言われます。
確かに、じっくり話をすれば、
「見た目と違って優しい人ですね」
「怖そうに見えたけれど、話すと面白い人ですね」
「思っていた印象と全然違いました」
ということがあります。
しかし、それは相手と話す時間があった場合です。
大雨の中。
傘で前がよく見えない。
初めて訪れるお寺。
大勢の参列者。
受付は三つ。
ゆっくり相手の人柄を確認している余裕などありません。
そのような状況では、人は目の前にある情報をつなぎ合わせて、素早く判断します。
お寺。
受付。
スキンヘッド。
僧侶受付は、あちらだ。
これは「人を見た目だけで判断した」というより、
限られた情報から、もっともありそうな答えを作った
ということなのかもしれません。
そして、その答えが、たまたま少しだけ間違っていた。
かなり並んでから間違いに気づいた僧侶の方々には、申し訳ないことをしました。
ただ、あれほど美しく列ができるとは、私自身も思っていませんでした。
旅館のエレベーターでも拝まれました
実は、似たようなことがもう一度ありました。
年の瀬に温泉旅行へ行ったときのことです。
大型の旅館へ泊まり、夕食会場へ向かうため、浴衣姿でエレベーターに乗りました。
途中の階で扉が開き、高齢の女性グループが乗ってきました。
その中のお一人が、私の姿を見るなり、突然こちらへ両手を合わせたのです。
そして、小さな声で、
「ナム~」
と言ったように聞こえました。
すると、一緒にいた方々まで私の方を向き、両手を合わせ始めました。
エレベーターの中で、突然始まる集団参拝。
私は、どうすればいいのでしょう。
こちらも手を合わせ返すべきなのか。
ありがたい言葉を述べるべきなのか。
それとも、
「違います。私はただ夕食を食べに行く途中の客です」
と説明するべきなのか。
結局、私は曖昧な笑顔を浮かべながら、軽く頭を下げました。

後から考えると、浴衣姿もいけなかったのでしょう。
浴衣。
スキンヘッド。
落ち着いた年齢。
この三つが揃ったことで、女性たちの中に、
「お坊さんかもしれない」
という答えが生まれたのかもしれません。
お寺の葬儀では、僧侶受付の案内板。
温泉旅館では、拝む対象。
私のアタマは、場所によって役割が変わるようです。
人間は、見えていない部分を勝手に補います
私たちは、目に入ったものを、そのまま受け取っているつもりです。
しかし実際には、目の前にある情報だけでは分からない部分を、これまでの経験や周囲の状況から補っているのでしょう。
遠くにいる。
雨でよく見えない。
話したこともない。
それでも、
「あの人は、きっとこういう人だ」
「ここは、きっとこういう場所だ」
と、頭の中で答えを作ります。
これは決して悪いことばかりではありません。
毎回すべてを一から確認していたら、日常生活が進みません。
目の前の信号が赤なら止まる。
店員らしい服装の人がいれば声をかける。
白衣を着て病院にいれば、医療関係者だと思う。
ある程度は、見た目や場所や過去の経験から判断しなければなりません。
問題は、その最初の判断を「仮の答え」ではなく、
「絶対に正しい答え」だと思い込んでしまうこと
なのかもしれません。
第一印象は、答えではありません。
最初に立てた仮説のようなものです。
話してみたら違った。
よく見たら違った。
新しい情報が入ったら、判断を変えればいい。
私の前に並んでいた僧侶の方々も、受付が違うと分かれば、本来の場所へ移動できます。
私も、自分のアタマが案内標識になっていると分かれば、別の場所へ移動できます。
間違えることよりも、間違いに気づいた後も動かないことの方が、問題なのかもしれません。
AIも「見た目」で判断しています
そして、この話はAIにも少し似ています。
AIは魔法の箱ではありません。
与えられた情報と、それまで学んできた大量のパターンをもとに、
「おそらく、こうだろう」
という答えを出します。
たとえば、画像生成AIに、
「雨の中、大きなお寺の葬儀受付にいるスキンヘッドの男性」
とお願いしたら、どうなるでしょう。
おそらくAIは、私に僧侶の服を着せるのではないでしょうか。
場合によっては、立派な袈裟まで用意してくれるかもしれません。
しかし、実際の私は僧侶ではありません。
子どもの数が少ないため、持ち回りで育成会長になった、町内にたまたま住んでいた商売人です。
AIは、私の過去を知りません。
どのような経緯で受付へ来たのかも知りません。
地域の人たちとの関係も知りません。

足りない情報をつないだAIは、私を立派な僧侶へ仕立て上げました。
ただ、
「お寺」
「葬儀」
「スキンヘッド」
「受付」
という情報から、それらしい答えを作ります。
ある意味では、雨の中で私の受付へ並んだ僧侶の方々と同じです。
人間もAIも、見えていない部分を、これまで知っているパターンで埋めようとします。
それが当たることもある。
見事に外れることもある。
そして、間違っているのに妙に説得力だけはあることもあります。
AIの答えにも「雨」が降ることがあります
AIを使っていると、とても自然な文章で答えてくれます。
あまりにも堂々と説明するので、
「そこまで言うなら正しいのだろう」
と思ってしまうことがあります。
しかし、AIにも見えていないものがあります。
こちらが伝え忘れた情報。
その場にいた人だけが知っている空気。
文章には書かれていない事情。
本人にしか分からない気持ち。
AIは、足りない部分を推測しながら答えを作ります。
私たちが気をつけるべきなのは、その推測を事実と混同しないことなのでしょう。
私の葬儀受付の話でいえば、AIに渡された情報の上にも強い雨が降り、視界が悪くなっているようなものです。
遠くにスキンヘッドの男性が見える。
場所はお寺。
目の前には受付。
AIが、
「僧侶である可能性が高い」
と判断しても不思議ではありません。
けれど、そのときに、
「僧侶です」
と言い切るのか、
「僧侶の可能性がありますが、情報が足りません」
と言うのかでは、大きな違いがあります。
AIがさらに便利になるほど、
分からないときに「分からない」と言えること。
判断の根拠を示すこと。
新しい情報が入ったら答えを修正すること。
こうした姿勢が大切になってくるのかもしれません。
これは人間も同じです。
人は見た目か?
「人は見た目ではない」
私は、その言葉に賛成です。
見た目だけでは、その人の考え方も、これまで歩いてきた人生も分かりません。
優しそうに見える人が、本当に優しいとは限らない。
怖そうに見える人が、怖い人とも限らない。
お坊さんに見える人が、お坊さんとも限りません。
ただし、
「人は見た目の影響を受けない」
というのも、少し違う気がします。
私たちは、どうしても見た目から何かを感じ取ります。
服装。
表情。
姿勢。
声。
立っている場所。
その周囲に何があるか。
そして、アタマ。
問題は、見た目から何も判断しないことではありません。
見た目から受け取った印象を、
「これは今のところの仮説です」
と、心の片隅へ置いておけるかどうかです。
話してみたら、印象が変わるかもしれない。
事情を知ったら、見え方が変わるかもしれない。
最初の判断が間違っていたら、静かに更新すればいい。
人間もAIも、一度出した答えへ意地を張らず、情報が増えるたびに判断を変えていけるなら、見た目から始まった誤解も、少しずつ減っていくのではないでしょうか。
AIによって、お葬式も変わるのでしょうか
これから先、AIがお葬式を手伝う場面も増えていくのでしょう。
参列者への案内。
駐車場の誘導。
受付の振り分け。
遠方の方への連絡。
故人の写真や思い出の整理。
もしかすると、会場のカメラと連動し、
「こちらは一般受付です」
「町内の方はこちらです」
「僧侶の方は右側へお進みください」
と案内してくれる日が来るかもしれません。
大雨で視界が悪くても、AIが正確に誘導してくれれば、今回のような混乱は起きないでしょう。
ただし、AIが私の姿を見た瞬間、
「僧侶である確率98%」
などと表示したら、話は別です。
町内受付から移動させられるだけでは済みません。
そのまま本堂へ案内され、
「それでは、お願いいたします」
と、お経を読む役まで任されるかもしれません。
困ります。
私が読めるのは、お経ではありません。
せいぜい空気と、noteの記事くらいです。
もっとも、空気の方は今でもときどき読み違えます(笑)
人間もAIも、見えているものだけで完璧に判断することはできません。
だから、少し立ち止まる。
相手に聞いてみる。
分からなければ確認する。
新しい情報が入ったら、考え直す。
そんな小さな手間が、誤解を減らすのだと思います。
あの日、雨の中で私の前に並んだ僧侶の方々も、決して間違ったことをしたわけではありません。
ほんの少し、情報が足りなかっただけです。
そして私も、まさか自分のアタマに、
「僧侶受付はこちら」
という案内機能が搭載されているとは知りませんでした。
25年以上経った今でも、私の頭に髪はありません。
しかし、AIは驚くほど進化しました。
もしかすると、これからのAIは私の姿を見ても、簡単には僧侶と決めつけず、
「念のため、ご職業を確認してもよろしいでしょうか」
と聞いてくれるようになるのかもしれません。
そのとき私は、胸を張って答えようと思います。
「僧侶ではありません。木曜になると昔話を書き始める、ただのスキンヘッドのオヤジです」
と。
追:
この町内が一緒であった和尚さん、自治会と育成会の懇親会で良く飲む機会がありました。
そんな和尚のカラオケの十八番は、松任谷由実さんの「真夏の夜の夢」でした。
カラオケへ行けば、必ずと言っていいほど、この歌を熱唱します。
本物の和尚がマイクを握り、冒頭から「骨まで溶けるようなテキーラみたいなキス」を求めて情熱的に歌い上げる。
お寺とテキーラ。
和尚と真夏の夜の夢。ホネまで溶けます。
そして、大抵爆笑の渦が巻き起こります。
これほど見た目から想像する姿と、実際の姿が違う人も珍しいかもしれません。
スキンヘッドだからといって、僧侶とは限らない。
そして本物の僧侶だからといって、カラオケでお経のような歌ばかり選ぶとも限らない。
やはり人は、見た目だけでは分かりません(笑)
溶けますw