メインコンテンツへスキップ
見出し画像

【エッセイ】アルマジロの背中

     京橋のホールを借り切って催された社員懇親会のあとで、社長が経営しているバーに流れた。
     新興のベンチャーで、売上も店舗数も急成長中だったが、社員はみんな社会保険にも入れてもらっていない。
    「社保は負担できなくても、こんなバーは経営できるんだな」
     と、誰かが言った。シッ!と声がして、みんな黙った。
     おしゃれで、上品なバーだった。ピアノジャズの音がしていた。確かに、厚生年金とキース・ジャレットの間には、何の関係もないだろう。
     僕が入った時には、席はもうすっかり埋まっていて、カウンターの一番端しか空いていないようだった。
     ようやくそこへ座ったが、目の前に変な樽が置かれていて、ひどく狭かった。
     一人でギネスビールをちびちび舐めていると、
    「音井さん」
     と後ろから声をかけられた。
     振り返ると、新卒の新入社員たちだった。僕は中途採用だが年度途中からだったので、社歴としては先輩に当たる。
    「こっちで一緒に飲みましょうよ」
     分厚い樫のテーブルの一角を空けてくれていた。僕はありがたくそちらへ移動した。
     みんな煙草を吸っていた。一人だけいる女の子も同じだった。確か、下鶴さんといったか。
     眼鏡をかけていて、色白だった。ややふくよかな感じだが、よく笑って、切れ長の目と細い鼻の形が整っている。ほっ、と息をつくような感じで、タバコの煙を吐き出していた。
    「セッタだ」
     僕はニス塗りのテーブルの上へ目を落としていた。白と銀のまだらのソフトパック。
    「はい」
     下鶴さんはこくんとうなずく。
    「14ミリ」
    「そうです」
    「昔吸ってみたけど、頭がクラクラした。それでももったいないから、全部吸ったけど。ヤンキーだったころ」
    「音井さん、ヤンキーだったんですか?」
     おかしそうにカラコロと笑う。
    「どんなヤンキーだったんですか」
    「人は傷つけない。もっぱら自分を。二時間目から学校へ行って、昼前には施錠された校門の上からかばん放り投げて、よじ登って、母親がパートに出ていったあとの家へ帰る。そんなヤンキーだった」
    「へえー」
     セッタを指に挟んだまま、感心したような、見下したような目を向けてきた。
     飲んでいるうちに、彼氏彼女がいるのかという話になった。下鶴さんはきっぱりと、
    「いません」
     と言った。歯切れのいい物言いだ。
    「じゃあ、俺とつきあってよ」
     と、なぜか僕は口に出していた。そんなこと、今まで誰にも言えたことがなかったのに。
    「いいですよ」
     紫色の煙を、ほっ、とまた吐き出した。下鶴さんがそれをすると、真冬の山道で、来るはずのないバスを待っているような気分になるのだ。

    この記事が参加している募集

    あなたへのおすすめ