
見えない盾 第5話 沈黙の代償
【前回までのあらすじ】
初めての自社ビルの屋上で、三人は「子供たちを絶対に裏切らない」と誓い合った。いつも敬語を崩さない松蔵が、初めて「俺が、この会社の門番になってやる」と口にした。
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第五章 沈黙の代償
それから幾年かが過ぎた、ある夜。西日本進出を目前に控えた事務所に、松蔵が一人で残っていた。
その日の夕方、一人の男が松蔵を訪ねてきた。取引を持ちかけてきた、新しい部品工場の営業部長だった。
「門脇さん、今お使いの部品屋さん、あそこは小さな工場でしょう。西日本に打って出るなら、今の三倍は要る。あそこじゃ、とても追いつきませんよ。うちなら、全部まとめてお引き受けできます」
男は、二通の見積書を机の上に並べた。
「こちらが、今と同じ品質のもの。正直、この値段じゃ今の部品屋さんとほとんど変わりません。ですが、こちら——中のバネと歯車だけをうちの素材に替えれば、ここまで下げられる。御社の利益は倍になる。うちは三倍の注文をいただける。誰も損をしません。外から見たら、まず区別はつきませんよ。……子供が分解でもしない限りね」
男は、にやりと笑って、見積書の下から、分厚い封筒をそっと滑らせた。
「これは、ほんのご挨拶です。社長さんには、門脇さんから上手に話していただければ」
松蔵は、封筒に目を落とすこともなく、それを指先で男の側へ押し戻した。
「お引き取りください」
「いや、しかし門脇さん、これは御社のためを思って——」
男が言い終わる前に、松蔵は机の上の見積書に手を伸ばした。安い素材に差し替えた方の一通だ。驚くほど魅力的な利益率が、太い数字で書き込まれている。
安い素材なら、値を下げてもなお、この男の工場には十分すぎる利ざやが残る。御社のため、などではない。封筒の中身は、その利ざやの前払いというわけだ。
松蔵はそれを男の鼻先に掲げると、相手の目をまっすぐ見据えたまま、真ん中から引き裂いた。
びりっ、と乾いた音が、静まり返った事務所に響いた。
男が息を呑む。松蔵の手は止まらなかった。二つに裂けた紙を重ねて、もう一度。さらに、もう一度。細かな紙片になったそれを、押し戻した封筒の上に、はらはらと落とした。
「子供が分解でもしない限り、分からない——とおっしゃいましたね」
松蔵の声は、どこまでも静かだった。
「うちには、子供が一生開けることのない箱の中のネジ一本にまで、手を抜かない職人がいるんです。その男の仕事を、こんな紙切れ一枚で汚すわけにはいきません。……こんなもの、社長に見せる必要すらない」
「し、しかし——」
「お引き取りください、と申し上げました」
その目を見た瞬間、男の顔から愛想笑いが消えた。男は紙片の散った封筒を慌てて懐にねじ込み、逃げるように事務所を出ていった。
それから、何時間が経っただろう。
机の上には、約束通りの品質を守った方の見積書が、一通だけ残っている。床に散らばった紙片を拾い集めて屑籠に放り込むと、松蔵は窓の外の暗い工場地帯を見やった。あの夕暮れの誓いを破るという選択肢は、最初から彼の中に存在しなかった。
だが同時に、松蔵はこの夜、もう一つのことを静かに決めていた。
——こういう「誘惑」は、これから何度でも訪れる。ならば、その一つひとつを社長の目に触れさせず、自分がすべて処理する。
宗一郎が無邪気に「新しい夢」を見続けられるように。ゆきおが安心して手を動かし続けられるように。
それは忠誠であると同時に、のちに彼を「大森の懐刀」と呼ばせることになる、静かな覚悟の芽生えでもあった。
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次回、第6話「社長室の工作台」。都心にそびえる新本社。豪奢な社長室の片隅には、プレハブ時代の傷だらけの作業台があった。ある土曜日、受付に小さなお客様が訪れる。
(第6話へつづく)