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Photo bymakeyourlemonade

哲学カフェASDの私でも心地良く考えを共有できる希望

    私の"ありのまま"の考えを人に伝えれば
    人を不快にさせると
    今までの経験は私に教えてくれていました。

    でも、哲学カフェに触れて
    その経験は覆せるのでは?と希望を抱き、
    自分で開催してみて、
    少しずつですが確信に近づいている。

    私の"ありのまま"の考えでも
    その場面と使いかたによっては
    多くの人を"楽しく"
    もしかしたら"幸せ"に出来るのかもと…。

    私の"ありのまま"を活かした
    私の自分だけの形になりつつある
    私の哲学カフェを紹介してみようと思います。

    哲学カフェ紹介まで少し長くなりますが、
    まずは私のできないことなど
    "ありのまま"について書かせてください。

    ASDの私ができないこと

    • 非言語コミュニケーション

    • 曖昧な言葉の理解

    • 雑談で場の秩序を保ち参加すること

    私ができないことへの対処

    • できないことの認識、分解、分類(予め、随時更新)

    • メタ認知

    • 確認

    • 構造化

    私は幼少期より、
    "できないこと"があまりにも明確でした。

    なので対処というよりも、
    人と比較的正常にコミュニケーションを取る手段が
    対処に書いたような事しか無かったという方が
    正確です。

    初めから、今でも高次元なものではない。
    但し、数十年の積み重ねはある。

    対処としての擬態は少しづつ避けています。
    "ありのまま"ではないから。

    人と考えかたが違うから"ズレ"る

    何気ない会話、意味の無い会話では
    多くの人はメタ認知なんて使わなければ
    確認も殆どしないし、構造化して理解なんて
    しないのですよね?

    でも私はそうしないと理解できない。

    だから会話を重ねると
    "ズレ"る。

    どのように"ズレ"るか

    例を挙げます。誰かとの会話。

    「今日は気持ち良い天気だね!」

    その時私は延々とキリがないほど考えます。
    今日?昨日は一昨日は?…
    晴れ、気温、気圧、湿度……
    だから快適気持ち良い?…………∞

    シンプルに答えれば良いのはわかっている。
    求められているのは
    気持ちよさの"共有"などで深い意味は無い。

    相手はミラーニューロンなど
    非常に素晴らしい感受性を駆使する。

    私がフレームワークなどを用いて
    疑似的に応答速度を速めたところで無駄。

    人によっては
    私が深く考えていることで発する僅かな情報から
    瞬時に読み取り”ズレ”を認識する。

    だから、私が表面的にシンプルに答えたところで
    全ての会話を深く考えていることは
    会話を重ねたり、関係が深まればいずれ
    "ズレ"として露呈する。

    この"ズレ"が人を必ず"不快"にさせると
    私は思い込んでいた。

    "ズレ"の認識の違い

    ここでいう"ズレ"を定型発達者は概ね

    • 違和感、モヤモヤ

    • 性格や感情が合わない、相性が悪い

    • 普通(常識,社会,秩序など)と違う

    のように捉えることが多いそうです。
    言語化、構造化、相関把握などの
    際に難易度が少し高そうですね。

    対して私は"ズレ"を以下のように理解します。

    • あらゆる違い

    自分自身を起点として
    "ズレ"に日常晒され観察している私は、
    "違い"として抽出分類言語化構造化相関把握などに
    長けております。

    不快ではない"ズレ"とは

    • 違和感、モヤモヤ

    • 性格や感情が合わない、相性が悪い

    • 普通(常識,社会,秩序など)と違う

    これらは恐らく不快な"ズレ"です。

    では、"ズレ"から抽出された"違い"はどうでしょうか?
    恐らくまだ不快となるものがあるはずです。

    安全が確保された状況で
    "違い"を発言し、
    "違い"を認識して考える。

    すると不快から心地よさに反転すると私は考えます。

    哲学カフェはその心地良い"違い"を扱う

    哲学カフェは知識など不要で誰でも参加可能。
    ⇒多様な人がランダムに集う
    ="違い"が生じやすい

    話を遮らない、最後まで聞く、考える
    お互いを尊重し、攻撃的な発言は控える。
    話はまとまっていなくても、考えを変えても良い。
    などファシリテーターが進行を行う。
    =安心して"違い"を話せる、認識し考えられる。

    もちろん他にも色々な要素があります。

    では、私の哲学カフェは?

    私の哲学カフェも
    その心地よい"違い"を重点的に扱います。

    多様な人がランダムに集うのも、もちろん同様
    抽象/論理的などなど本当に素敵な方々が参加されます。

    私の哲学カフェは挙手指名制。
    なので原則1人の語りに集中出来ます。

    私は
    非言語コミュニケーションも
    曖昧な表現も
    直接理解はできません。

    だから、
    メタ認知を高め、
    構造を理解し、
    語りから問いを抽出、言語化し、
    確認しながら、出来る限り尊重しながら、
    変数は少しずつ削ぎ落し、
    ホワイトボードに書き記します。

    変数を削ぎ落すから普遍化して
    一つ一つの語りは、考えは、
    場で共有、醸成され深まっていく。

    更に重なるみんなの自発的な語りで
    構造が美しく形成されていく。

    私だからこそ。きっと…

    "ズレ"に晒されてきから、
    "違い"にずっと向き合ってきたから。

    きっと色々な"ズレ"も"違い"も気が付いて
    尊重できる。大事に扱える。

    大事な語りは、その実体験は、考えは、
    その問いは、一見突拍子もなかったとしても、
    出来るだけ仲間外れを作らない。
    構造で包み込む。
    必ず関連性を見出す。安心につなげたい。

    そうすることで
    多くの気づき、新たな視点などが
    きっと生み出されている。

    私自身の"できない"ことは
    ここでは"できること"に反転する。

    きっと共有も出来ている。

    私の哲学カフェでは"ありのまま"

    私の哲学カフェで私はたぶん"ありのまま"です。

    日常では私の"ありのまま"の考えは
    他者にとって"ズレ"であり不快。

    でも私の哲学カフェの構造は
    私の思考構造そのもの、とも言える。
    それなのに、

    それを"楽しい""面白い"
    なかには"幸せ"とすら言ってくれる人がいる。

    考えの共有なのかな?

    私も哲学カフェのファシリテーターとして
    とても"楽しい""面白い"
    それにきっと"幸せ"

    私の考えを共有出来ていると
    言ってよいのかな?

    哲学カフェが終わった後に

    皆さんが好きな雑談の時間を
    自由参加で設けています。

    私は雑談全体にはついていけないので
    個別にお話ししてくださる方とお話したり、
    少し遠めに雑談している皆さんを眺めます。

    皆さんとっても楽しそう。
    そう思えたときに感じる感情が
    私の『幸せ』なのかもしれません。

     
     
    すべてが『問い』 子供の頃から自然と、 今では明確に実践し続ける。 哲学カフェで垣間見る、 共有された人々の深い問いは 私にかけがえのない多くのものをもたらす。 いつかは実現したいこと。 それは叶わないかも知れない。 人間らしく、でも平和に足掻き続けてみたい。

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