
【連載小説】澪標 — 東京湾埋立地浄化録 — 第六章 夜明けの色
一
ノートのページをめくる。
正常。正常。正常。
東凪のノートには、同じ言葉が並んでいた。
晴海と豊洲の境で、五人そろってあの澱みを見た日、凪はあらためて決めた。
あの黒いものが水に何かをしているなら、いつか必ず数字に出る。
数字に出れば、霊体の見えない人にも、ここで何かが起きていると示すことができる。
測りはじめてから、ふた月あまり。
ほとんど毎日、東雲や豊洲の運河の水を汲んでは、濁りや、水に溶けた酸素の量を測ってきた。
けれど数字は一度も、「正常」からはみ出さなかった。
その代わりに、数字の横に、小さな書き込みが増えていた。
自分の目で確かめ、しのに空からも見てもらった、黒い渦の大きさだ。
東雲、家の近くの運河。
黒い渦、直径およそ三メートル。
五日後、およそ五メートル。
昨日、対岸まで届いている。
晴海と豊洲の境の澱みは、五匹の霊体が水の底へ押し戻した。
月島、晴海、豊洲では、それぞれ悪気が祓われたと、しのから聞いている。
それなのに、東雲の運河の渦だけは、日ごとに濃くなっていく。
「……数字に出ないなら、こんなの、記録したって意味ないのかもな」
科学部の部室で、凪はつぶやいた。
ほかの部員は、文化祭の展示に使う模型づくりに夢中で、誰も凪のひとり言を聞いていなかった。
窓の外の手すりに、鴨が一羽とまっている。
「ため息は、幸せが逃げるらしいよ」
しのが、窓越しに言った。
凪にしか聞こえない声だ。
「迷信だ」
「そうかい。じゃあ、もう一つ。今日も空から見てきたけど、東雲の運河は、もう底が見えないくらい黒いよ」
凪は、ペンを握る手に力をこめた。
わかっている。
自分の目でも、毎日見ている。
見て、測って、記録して、それでも、何も変わらない。
豊洲で猛が祓うのを見てから、三日がたった。
あのとき猛は、祓い終わる瞬間に、昔の造船所の景色を見たと言っていた。
月島では望月が、晴海では日向が、それぞれに何かを見たらしい。
凪は、まだ一度も祓ったことがない。
「東雲のは、まだ形になってないだけだよ」
凪の考えていることがわかったように、しのが言った。
「形になりきらないまま、底でずっと溜まり続けてる。……そういう澱みが、いちばん厄介なんだ」
二
部活のあと、凪はいつものように、家の近くの運河へ自転車を走らせた。
東雲の運河沿いには、遊歩道が続いている。
対岸には倉庫やマンションが並び、水面にはその影が長く伸びていた。
日はもう、すっかり沈みかけている。
自転車を停め、採水用のボトルを取り出したときだった。
「……凪。来るよ」
前かごのしのが、いつになく低い声で言った。
「僕の島だ。底に溜まってたものが、とうとう形になる」
運河の水面が、ゆっくりと盛り上がった。
黒いものが、水の底からせり上がってくる。
それは岸を越えて遊歩道にあふれ出し、ドロドロとした黒い塊になっていった。
これまでに見たどの悪気よりも大きかった。
そして、あたりが暗くなっていった。
夕暮れのせいではない。
対岸のマンションの灯りが、ひとつ、またひとつと、しぼむように薄れていく。
車の音も、風の音も、遠くなっていく。
まるで、世界じゅうの色と音が、あの黒い塊に吸い込まれていくようだった。
──もう、遅い。
頭の奥に、声が響いた。
──何をしても、変わらない。
──朝なんて、もう来ない。
「絶望の澱みだ」
しのが、前かごから飛び立った。
薄紅色の淡い光をまとい、黒い塊の前に立ちはだかる。
けれど、その光は、まわりの闇に吸い込まれるように、すぐに弱くなった。
凪は、動けなかった。
──何をしても、変わらない。
その声は、このふた月あまり、ノートをつけながら、凪が何度も心の中でつぶやいてきた言葉と、同じだった。
「……凪。仲間を呼ぶかい?」
しのが、振り返らずに聞いた。
凪は、答えに詰まった。
呼んだところで、どうなるというのだろう。
晴海と豊洲の境では、五匹がそろっても、底へ押し戻すのが精一杯だった。
それに、これは東雲の澱みだ。
ふた月あまり、ひとりで見てきて、何もできなかった、僕の町の。
「……いい。東雲のことは、僕がやる」
凪は、そう答えた。
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
三
「東!」
声がした。
暗くなりかけた遊歩道の向こうから、誰かが走ってくる。
猛だった。その横を、栗毛の馬──とよすけが、どすどすと駆けてくる。
「船木……どうして」
「とよすけが、東雲の様子がおかしいって言うから」猛は息を切らしながら言った。
「豊洲からでも、こっちの空が真っ暗なのが見えた」
「ガハハ、隣でこんだけ澱めば、嫌でもわかるってもんよ」
とよすけの笑い声は、闇の中でも、少しも小さくならなかった。
凪は、首を振った。
「……来なくていい。これは、僕の町のことだ」
猛は、一瞬、言葉に詰まった。
それは、三日前に自分が凪に言ったのと、ほとんど同じ言葉だった。
「……そうか」
猛はそう言って、凪の少し後ろに立った。
「この前、お前は帰らなかっただろ。だから、俺も帰らない」
──もう、遅い。
黒い塊が、さらに膨らんだ。
闇がまた一段と深くなり、しのの薄紅色の光が、今にも消えそうに揺れる。
凪は、膝から崩れるように座り込んだ。
頭の中で、声が止まらない。
もう遅い。何をしても変わらない。
ふた月あまり、毎日測って、毎日記録して、それでも数字ひとつ動かせなかった。
誰にも、何も示せなかった。
「……凪」
しのが、闇の中から戻ってきて、凪の膝の上に降りた。
その羽が、小さく震えている。
「君、さっき、記録したって意味ないって言ったね」
「……」
「でも、君はやめなかった」
しのは、凪のリュックの口からのぞいているノートを、くちばしで軽くつついた。
「この島はね、ずっと沈み続けてきたんだ。昔、地下の水をくみ上げすぎて、土地がどんどん低くなった。僕は、それを止められなかった。足元が沈んでいくのを、ただ見ていることしかできなかった」
しのの声から、いつもの皮肉っぽさが消えていた。
「だから僕は、空から見ることにしたのさ。沈んでいく足元ばかり見ていたら、僕のほうが先に沈んでしまうからね」
「……」
「空から見るとね、わかることがある。夜がどんなに長くても、朝は必ず東の空から来る。この島の名前は、そういう意味さ。東雲は、夜明けの空のことだ」
しのは、凪を見上げた。
「君がこのノートをつけ続けてきたのは、どうしてだい? 本気で意味がないと思っていたなら、とっくにやめていたはずだ」
凪は、リュックからのぞくノートを見た。
ふた月あまり、ほとんど毎日。正常、正常、正常。
その横に、黒い渦の大きさ。
変わらないと思いながら、それでも、毎日、測りに来た。
「……最初は、数字に出せば、誰かに見せられると思ったんだ」
かすれた声が出た。
「でも、出なかった。それでも、やめられなかった。数字にならなくても、記録しておけば、いつか、何かの役に立つかもしれないって」
「もう、役に立ってるさ」
しのが言った。
「君が毎日書いてきた渦の大きさを、僕は空から見た景色と照らし合わせてきた。どこに澱みが溜まって、どこへ広がっていくのか。君のノートがなかったら、僕にもそこまではわからなかった」
「それが、希望ってやつさ」
しのが、少しだけ得意そうに言った。
「根拠のない楽観とは違う。暗い中で、それでも明日のために何かを続けること。君はずっと、それをやってきたんだよ」
凪は、ゆっくりと顔を上げた。
闇の向こうに、猛の背中が見えた。
とよすけと並んで、黒い塊と凪のあいだに立っている。
頼まれてもいないのに。
猛が、肩越しに振り返った。
「東。……手、貸してもいいか」
凪は、少しのあいだ黙っていた。
この前、豊洲で、自分は猛に「手伝う」と言った。
断られて、それでも帰らなかった。
あのとき、どうして帰らなかったのか、自分でもよくわかっていなかった。
今なら、少しだけわかる。
「……頼む」
凪は、しのの小さな背中に、そっと手を置いた。
猛が、とよすけの首に手を添えた。
しのの体から、薄紅色の光があふれ出した。夜明けの空の色だった。
そこに、とよすけの深い緑の光が重なり、凪の手のひらから、静かな熱が流れ込んでいく。
凪は、立ち上がった。
黒い塊を、まっすぐに見た。
──朝なんて、もう来ない。
「……来るよ」
凪は、はっきりと言った。
「僕は、それを確かめるまで、測り続ける」
薄紅色の光が、遊歩道を伝い、運河の水面に広がっていく。
闇に吸い込まれていた対岸の灯りが、ひとつ、またひとつと、色を取り戻していく。
黒い塊が、ゆらりと揺れた。
その奥で、何かがちらりと光った。
そのとき、凪の目の前に、知らない景色が重なった。
夜明け前の、薄暗い水面だった。
広い水の上に、たくさんの丸太が浮かべられている。
その上を、作業着の男たちが、身軽に渡っていく。
東の空が、少しずつ、薄紅色に染まりはじめていた。
──今日も、朝が来たな。
誰かが、丸太の上で背伸びをしながら、そう言った。
瞬きをしたときには、景色は消えていた。
黒い塊は、砂の色に変わって、さらさらと崩れていった。
崩れた砂は、川風に乗って、運河の向こうへほどけていく。
水面に、夕暮れの最後の光が戻っていた。
四
「おーい!」
遊歩道の向こうから、また声がした。
湊だった。そのうしろに、栞と結が続いている。
足元にはかっちー、肩にはつきちゃんとはるはる。
三人とも、ずいぶん走ってきたらしく、息を切らしていた。
「豊洲の馬が、でけえ声で呼んでたって、かっちーが……」と湊が言った。
「……もう、終わっちゃった?」
結が、運河を見て言った。
「終わった」と猛が答えた。
「東と、しのが祓った」
「しの?」と栞が首をかしげる。
「僕のことさ」と鴨が、凪の肩の上で胸を張った。
「凪がつけてくれた名前だよ」
「おうよ! おれぁ、とよすけってんだ。猛がつけてくれた名前よ」と、とよすけが割り込んだ。
「……声が大きいって」と猛が言った。
湊は、凪のほうを見た。
凪は、その場に座り込んだまま、ぼんやりと運河の水面を見つめていた。
「東、大丈夫か?」
「……ああ」
凪は、ゆっくりとうなずいた。
それから、自分の手のひらを見た。
「……見えた」
小さな声だった。
「夜明けの運河で、丸太の上を人が歩いてた。
『今日も、朝が来たな』って」
栞と結が、顔を見合わせた。
猛が、黙って凪の肩を軽く叩いた。
湊だけが、少しうつむいた。
五人のうち、まだ何も見えていないのは、湊だけになった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
運河の向こうで、マンションの灯りが、いつもの色で並んでいる。
凪が、リュックからノートを取り出した。
「……見てほしいものがある」
凪はノートを開き、最後のページの手書きの地図を、みんなのほうへ向けた。
東京湾の埋立地が並び、そのいくつかに、小さな黒い丸が書き込まれている。
「このひと月半、しのに空から見てもらって、澱みがありそうな場所を記録してきた。勝どき、月島、晴海、豊洲、東雲。今日までに、全部で祓った」
凪の指が、地図の外側へ動いた。
有明、お台場、そしてもっと沖の埋立地。
「でも、こっちにも、同じような黒い印がある。しかも、だんだん増えてる」
「……沖のほうの、埋立地」と栞がつぶやいた。
「ああ」としのが言った。
「空から見ると、よくわかる。外側の島ほど、空がにごってる。あっちには、僕たちのような澪標は、いないからね」
「わしらが、ずっと守ってきた島々じゃ」
つきちゃんが、静かに言った。
「わしらの浄化の力は、自分の島だけのものではない。昔は、その力で、まわりの島の澱みも、少しずつほどいてきた。……じゃが、今のわしらには、もう、そこまで手が回らん」
結が、はるはるの羽をそっとなでた。
はるはるは、何も言わずに、遠くの暗い海を見ていた。
「……じゃあ、行くしかねえだろ」
湊が言った。
四人の視線が、湊に集まった。
「俺、最初は、勝どきのことだって、夢だったことにしようとした。でも、月島も、晴海も、豊洲も、東雲も、誰かが駆けつけて、なんとかなった。ひとりじゃ無理でも、一緒なら、なんとかなるかもしれないだろ」
しばらく、誰も答えなかった。
最初に口を開いたのは、猛だった。
「……俺は、豊洲のことは自分でやるって言った」
猛は、凪をちらりと見た。
「でも、今日、東のところに来て、わかった。ひとりで抱え込んでるやつを見てると、放っておけない。……たぶん、俺のときも、東はそう思ってたんだろ」
凪は、答えなかった。
けれど、否定もしなかった。
「行こう」と猛は言った。
「みんなで」
「わたしも」と結が言った。
「沖の埋立地の声も、きっと、誰かに聞いてほしいんだと思う」
「私も行く」と栞がうなずいた。
「ひとりで考えてても、答えは出ないって、この前わかったから」
凪は、ノートの地図を見下ろした。
黒い印の並ぶ、沖の埋立地。
「……記録は、僕がつける」
それが、凪の返事だった。
五人の足元で、霊体たちが顔を見合わせた。
「ガハハ! 決まりだな!」
とよすけが、運河じゅうに響く声で笑った。
つきちゃんが、ほっほっと目を細め、はるはるが、うれしそうに羽をふくらませる。
しのは、「やれやれ、賑やかになるね」と言いながら、まんざらでもなさそうだった。
ただ、かっちーだけが、少し離れたところで、勝どきの方角を見ていた。
「……かっちー?」
湊が呼ぶと、かっちーは振り返って、いつものように尻尾を振った。
「おう。行こうぜ、湊」
その声は、いつもと同じように聞こえた。
五
その夜、凪は自分の部屋で、ノートを開いた。
今日の日付を書き、いつものように、水質の数字を書き込む。正常。
その横に、少し考えてから、もう一行書き足した。
──東雲の澱み、祓った。船木、橋詰、望月、日向が来た。
ペンを止めて、もう一行。
──初めて、見えた。夜明けの運河。
窓辺に止まっていたしのが、のぞきこんで、くすりと笑った。
「ずいぶん、人間らしい記録になったね」
「……観察記録だ」
「はいはい」
凪は、ノートを閉じた。
窓の外には、東雲の夜が広がっている。
運河の水面は、もう黒くはなかった。
けれど、そのずっと向こう、海のほうの空だけが、星も見えないほど、重たくにごっていた。
(第六章 了)