
【連載小説】澪標 — 東京湾埋立地浄化録 — 外伝4 さびしくない待ち方
一
十一月八日の日曜日。
結は、月島の和菓子屋で、明日の部活で使う干菓子を買った。
月曜日の茶道の稽古で出すお菓子は、二年生が順番に用意することになっている。今週は、結の番だった。
菊のかたちの、小さな落雁。薄紅と白をひと箱ずつ。お店のおばさんが、箱を薄紙でていねいに包んでくれた。
「結ちゃん、箱、斜めになってる」
肩の上から、はるはるの声がした。
「なってないよ」
「なってる。ほら、紙袋の中で、ちょっと傾いてる。落雁って、割れやすいんでしょ」
「……ほんとだ」
結は紙袋をのぞきこんで、箱をまっすぐに置き直した。
はるはるが、ほっとしたように羽をたたむ。
はるはるは、心配性だった。
家に来てからのひと月あまりで、結はそれをよく知っていた。
信号が青に変わっても、はるはるは左右を三回確かめないと結を渡らせようとしない。
結が台所で包丁を持てば、その手もとから目を離さない。
夜に結が少し咳をしただけで、ひと晩じゅう枕もとに座っていたこともあった。
「結ちゃん、そこ、段差」
「見えてるよ」
「自転車、来てる」
「うん、よけるね」
結は、ひとつひとつにうなずきながら歩いた。
うるさいと思ったことは、一度もなかった。
誰かにこんなふうに気にかけてもらうのは、なんだか、くすぐったかった。
月島から晴海へ渡る橋の上で、風が少し強くなった。
運河の水面が、細かく波立っている。
「……ねえ、結ちゃん」
はるはるが、いつもとちがう声で言った。
「なあに?」
「帰る前に、ちょっとだけ、ふ頭に寄ってもいい?」
結は、思わず足を止めた。
はるはるが、自分から何かをしたいと言うのは、めずらしかった。
いつもは、結の行きたいところへ、黙ってついてくるだけなのだ。
「いいよ。……でも、どうしたの?」
「ううん。なんでもないの。……ただ、今日は、海が見たいなって」
はるはるは、そう言って、晴海のいちばん先のほうへ、細い首を伸ばした。
二
晴海のいちばん先、ふ頭の岸壁には、ほとんど人がいなかった。
客船ターミナルが取り壊されたあとの岸壁は、ひっそりとしている。
ひと月あまり前、結がはじめて悪気と向き合った公園は、ここから少し歩いたところだ。
けれど、岸壁のこちら側まで来たのは、はじめてだった。
海から吹いてくる風は、もう冬の冷たさを含んでいた。
結は、紙袋を胸に抱えなおした。
「結ちゃん、そこ、端っこ。あんまり寄ったら……」
「落ちないよ。ちゃんと柵があるでしょ」
「でも、風が……」
はるはるは、そこまで言いかけて、ふっと黙った。
結は、肩の上を見た。
はるはるは、まっすぐに海のほうを向いていた。
丸い目が、遠くの、もっと遠くのほうを見ている。
羽が、風に吹かれて、小さくそよいでいた。
しばらく、はるはるは何も言わなかった。
いつもなら、ひと息のあいだに三つは心配ごとを口にするのに。
「……はるはる?」
「……ねえ、結ちゃん。今日、十一月八日だよね」
「うん」
「七十年前の今日ね、ここから、大きな船が出ていったの」
はるはるは、岸壁の先の、何もない海を見たまま言った。
「南極へ行く船。……いちばん遠い、氷の海まで行って、いろんなことを調べてくるんだって。乗っていたのは、学者さんや、船の人たち。何か月も、帰ってこられない旅だった」
結は、いつかテレビの特集で見た、古い白黒の映像を思い出した。
岸壁を埋めつくす人と、空を横切る、何本もの紙テープ。
「……宗谷?」
「そう。宗谷」
はるはるは、小さくうなずいた。
「あの日は、すごかったよ。朝から、岸壁じゅう、人でいっぱいで。みんな旗を振って、名前を呼んで、紙テープを投げて。船の上からも、たくさんのテープが降ってきて、岸と船のあいだに、色とりどりの橋がかかったみたいだった」
はるはるの声が、少しだけ明るくなった。
けれど、すぐに、また静かになった。
「船が動きだすとね、テープが、一本ずつ、ぷつん、ぷつんって、切れていくの。……わたし、それを見てたら、なんだか、こわくなっちゃって」
「こわく?」
「うん。だって、あんなに遠くへ行くんだもの。本当に帰ってくるのかなって。……わたしね、待つのが、ずっと苦手だったから」
結は、何も言えなかった。
はるはるが待っていたもののことを、結は知っている。
ひと月あまり前、この近くで見た景色。
紙の旗を握りしめて、来ない博覧会を待ち続けていた、女の子の記憶。
「それでね」
はるはるが、言った。
「その日、岸壁のいちばん前に、小さな女の子がいたの」
三
「五つか、六つくらいの子。お母さんと手をつないで、ずっと、船の上の、ひとりの人に手を振ってたの。……その子の、お父さん」
はるはるは、岸壁の柵のあたりを、じっと見つめた。
まるで、そこにまだ、その子が立っているかのように。
「まわりの大人は、泣いてる人もいたのに、その子は泣かなかった。船が見えなくなるまで、ずうっと手を振ってた。……わたし、それを見て、心配で心配で、たまらなかった」
「心配?」
「だって、あの子、きっとこれから、毎日さびしいでしょ。博覧会を待ってた子みたいに、ずっと、来ないものを待つことになったら、どうしようって」
はるはるの羽が、小さくふるえた。
「その子ね、それからも、ときどき岸壁に来たの。お母さんに連れられて、日曜日に。柵につかまって、海のほうを見て、ひとりで何かしゃべってた。……わたし、毎回、その子のそばまで飛んでいった。見えないのはわかってたけど、それでも、そばにいたかったの」
「……何て、しゃべってたの?」
「『お父さん、きょうはね』って」
はるはるは、少しだけ笑った。
「その日にあったことを、全部、海に向かって話してたの。幼稚園で何をしたとか、お母さんが何を作ってくれたとか、近所の犬に吠えられたとか。……それで、話し終わると、お母さんの手をにぎって、帰っていくの」
風が、岸壁の上を吹き抜けていった。
結は、紙袋を抱えた腕に、少しだけ力をこめた。
「冬になってね、ラジオで、悪い知らせが流れたの。船が、南極の氷に閉じこめられて、動けなくなったって」
「……うん」
「その次の日曜日、その子のお母さんは、岸壁で、ずっと下を向いてた。……わたしも、もう見ていられなかった。やっぱり、待つのは、こわいことなんだって思った」
はるはるは、そこで一度、言葉を切った。
「でもね、その子は、いつもと同じだったの。柵につかまって、海に向かって、『お父さん、きょうはね』って。……それで、お母さんが、とうとう聞いたの。待ってるの、さびしくないの、って」
「……その子、なんて?」
はるはるは、その子の声をまねるように、少しだけ高い声で言った。
「『さびしくないよ。だって、かえってくるって、やくそくしたもん。かえってきたら、いっぱいおはなしするの。だから、いま、おはなしすること、ためてるの』」
結は、息をのんだ。
「わたし、びっくりしたの」
はるはるの声が、やわらかくなった。
「わたしは、待つって、ただじっと、さびしいのをがまんすることだと思ってた。でも、あの子のは、ちがった。待ってるあいだに、会えたら話すことを、ひとつずつためてたの。……待つのが、あの子にとっては、会う日の準備だったんだね」
「……船は、どうなったの?」
「ほかの国の船に助けてもらって、氷から抜け出せたんだって。それで、次の春に、ちゃんと帰ってきた」
はるはるは、柵の向こうの海を見た。
「春になってから、その子、もう一回だけ、ここに来たよ。今度は、お父さんと手をつないで。……お父さんに、ここから船が出たんだよって、得意そうに教えてた。ほらね、かえってきたでしょ、って」
はるはるは、そこで、ふうっと小さく息をついた。
「わたし、あの子に、待ち方を教わったの」
四
しばらく、ふたりとも黙って、海を見ていた。
沖のほうを、大きな貨物船が、ゆっくりと横切っていく。
紙テープも、見送る人もいない。
それでも、あの船にも、どこかで帰りを待っている人がいるのだろうと、結は思った。
「……ねえ、はるはる」
「なあに?」
「はるはるは、今も、待つの、つらくない?」
はるはるは、すぐには答えなかった。
丸い目が、一瞬だけ、晴海の町のほうへ泳いだ。
ひと月あまり前、結が見た景色の中で、女の子が博覧会を待っていた、あのあたりだった。
「……今は、平気」
はるはるは、ちょっとだけ笑って、そう言った。
結は、その「今は」が、少しだけ気になった。
けれど、それ以上は聞かなかった。
平気だと言う相手に、もう一歩踏みこむやり方を、結はまだ知らなかった。
「……待ってくれる人がいるのって、心強いね」
結は、かわりに、そうつぶやいた。
「その子のお父さんも、きっと、氷の中で、その子のこと、思い出してたんじゃないかな。帰ったら、いっぱい話を聞かせてもらえるって」
「……うん」
はるはるは、うれしそうに羽をふくらませた。
日が、西に傾きはじめていた。
結は、紙袋を抱えなおして、岸壁に背を向けた。
帰り道、晴海の大通りを歩きながら、結は、ふと口を開いた。
「はるはる」
「なあに?」
「わたし、学校とか部活で、いないときあるでしょ。……ちゃんと帰ってくるから、待っててね」
はるはるが、きょとんとした。
「……待ってるよ。いつも」
「うん。でも、心配しないで待ってて。……お話、ためながら」
はるはるの丸い目が、ゆっくりと細くなった。
「……うん。ためとく。結ちゃんが帰ってきたら、いっぱい話す」
「約束だよ」
「約束。……そのかわり、結ちゃんも、帰ってきたら、ちゃんと話してね。外で、何があったか」
結の足が、ほんの少しだけ、ゆるんだ。
胸の奥に、部室で聞いた声が、まだ小さな棘のように引っかかっている。
──日向先輩はいいよね。
あの日から、ひと月あまり。結はそのことを、はるはるにも、誰にも話していなかった。
「……うん。話すよ」
結は、笑って答えた。
いつもの声だった。
はるはるは、何も言わなかった。
ただ、結の肩の上で、羽をそっと結の首すじに寄せた。
ふたりは、そのまま並んで歩いた。
家の前まで来たところで、はるはるが、思い出したように紙袋をのぞきこんだ。
「結ちゃん、落雁。……割れてない?」
「割れてないよ。ほら、まっすぐ」
箱は、紙袋の底で、きちんとまっすぐに収まっていた。
はるはるは、ほうっと息をついた。
(外伝4 了)