
「僕を愛してほしい」から「君が君であればいい」へ——墨香銅臭先生が描く「忠誠」の系譜
『人渣反派自救系統』『魔道祖師』『天官賜福』を続けて読んでいると、三作品に共通するある美学に気づく。
それは、「たとえ世界中を敵に回しても、ただ一人だけは決して見捨てない」という忠誠だ。
洛氷河、藍忘機、花城。三人とも、愛する相手に対して驚くほど一途である。
けれど、その「忠誠」の形は少しずつ違う。
洛氷河の忠誠は、もっとも原初的だ。
幼い頃から孤独の中で生きてきた彼にとって、師尊・沈清秋は初めて自分に手を差し伸べてくれた人だった。だからこそ彼が求めるのは、「どうして僕を捨てたのか」「どうして僕を愛してくれないのか」という答えでもある。
「僕を愛してほしい」
そんな愛情と執着がほとんど分けられないところに、洛氷河の忠誠がある。
藍忘機になると、それが少し変わる。
彼は魏無羨に、自分を選ぶことを強要しない。世間が魏無羨を否定しても、その人自身を信じ、彼が選んだ道の隣に立つ。
三十三本の戒鞭痕も、十三年間の問霊も、言葉よりも静かにその覚悟を物語っている。
「君がその道を行くなら、私は君の隣にいる」
洛氷河が「愛されること」を求めたのに対して、藍忘機は「相手の選択」を受け入れる。
そして花城になると、その忠誠はさらに遠くまで行く。
800年間、ただ一人の神を信じ続けた花城にとって、謝憐が自分を必要としているかどうかは、もはや重要ではない。
謝憐が謝憐として生きている。
それだけでいい。
「君が君であれば、それでいい」
だから私は、花城の忠誠を「愛」というより、むしろ「信仰」に近いものとして感じる。
「僕を愛してほしい」から、「君の隣にいたい」へ。
そして、「君が君であればいい」へ。
同じ「一途」でも、三人の忠誠はまったく違う。
墨香銅臭先生が三作品を通して描いてきたのは、もしかすると、この「一人を信じる」という感情が、形を変えながらどこまで深くなれるのか、ということなのかもしれない。
世界中がその人を否定しても、たった一人だけは信じている。
私は、そんな「絶対的な忠誠」に何度も心を奪われてしまう。