
「ねじれの一致」/ 短篇小説(マス文学)#135
ねじれの位置、というのは、数学の言葉だ。
空間のなかにある二本の直線が、交わらず、平行でもない時、それらは「ねじれの位置にある」と呼ぶ。中学の終わりか高校の初めに習う。習ったことだけは覚えていて、何に使うのかは、誰も教えてくれなかった。
だからこの話のタイトルが「ねじれの一致」になっているのは、誤植ではない。誤植だとしても、もう直せない。タイトルは、小説でいちばん最初に書かれて、いちばん最後まで責任を取らされる場所だからだ。たぶん、その後のことは、全作家の知った事ではない。
ここで一度、論理を整理しておく。
ねじれているなら、一致しない。一致しているなら、ねじれていない。これは対偶というやつで、対偶は元の命題と同じ値打ちを持つ、と習った。つまり「ねじれの一致」は、存在しない。存在しないものにタイトルを付けたのだから、この小説は、最初から空き家である。空き家には、住めないが、入ることはできる。
さて、私には、よく話す人がいる。名前はあるが、ここでは「彼女」と書く。その彼女のことを、「直線B」とは書かない。そこまで露骨な小説ではない。
彼女とは、毎朝おなじ電車に乗る。おなじ車両の、おなじドアの、でも私は左側、彼女は右側に立つ。降りる駅もおなじで、改札を出ると、彼女は北口、私は南口へ歩いていく。
私たちは毎日、挨拶をする。「おはよう」「おはよう」。それは確かに一致している。声の高さは違うが、言葉は一致している。
けれど、私が彼女の家を知らないように、彼女も私の家を知らない。おなじ電車で、おなじ時刻に、おなじ場所に居合わせ、しかしどこまで延ばしても、私たちの道は交わらない。かといって、並んでもいない。彼女の道は少し斜めで、私の道は少し上のほうを走っている。こう言う状態を何と呼ぶか、昔学校で学んだ。
ある朝、彼女が言った。 「今日、ちょっと一致してるね」 何が、と私は訊かなかった。訊いたら、一致が壊れる気がしたからだ。これは論理ではなく、気分である。この小説は、論理と気分のあいだを、何度か行き来する。
私はただ、「そうだね」と返した。そして、そうだね、と言ってしまった自分の発言を、頭のなかでしばらく眺めた。何に同意したのか分からないまま同意する、というのは、一致のなかでもいちばん安上がりで、いちばん長持ちする種類のものだ。
その日の帰り、私は文房具屋で定規を買った。三十センチのものだ。駅の改札の前で、空中に、二本の線を引いてみた。
一本は私の、南口へ向かう線。もう一本は彼女の、北口へ向かう線。
当然、何も見えない。通りがかった人が、私の手の動きを見て、少しだけ避けて歩いた。
避けてくれた、ということは、私の線は、その人の線とも交わらなかった、ということだ。 世界は、ねじれの位置でいっぱいだ。ねじれの位置が多いから、人はぶつからずに歩ける。ねじれは、すれ違いではなく、衝突の、そして問題の回避である。そう考えると、少しだけ、気が楽になった。
その後で、気づいた。
ここまで読んでくれたあなたと、私も、ねじれの位置にある。あなたは今、どこかの椅子か、電車のつり革のそばで、この文章を読んでいるかも知れない。私は、これを書いたとき、別の場所にいた。時間さえ、一致していない。
それでも、今この一行を、あなたが読み、私が書いている。ほんの一点、一致している。
いや、正確には、一致してはいない。一致しているように、あなたが見てくれているだけだ。
ねじれた二本の線は、平面に写すと、交わって見える。投影図、というやつだ。ねじれたまま、一致して見える角度が、ほんの少しだけある。
この小説は、その投影図である。だから、これでいい。
翌朝、彼女は言った。「おはよう」。 私も、「おはよう」と返した。そして、いつもの様に、分かれた。
今日も、そこだけが一致していた。ちゃんと、ねじれたままに。
※ この小説は、エッセイ風ではあるが、作者である僕が経験したかどうかは、勘案しない。