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『心の居場所』を考えた

    乃井万さんの企画に参加させていただきます。
    ギリギリすぎる‥( * . .)"スミマセン


    乃井 万さんの記事を読みながら、大きく頷いている自分がいた。
    「心の居場所」→「自分を好きになる」場所という言葉にワクワクした。
    私の思いに通じるところがあり、それを言葉にしてくれる人がいる。
    こうして実際にnoteで活動を始めていらっしゃるのもうれしかった。

    私が思う「心の居場所」とは

    一人ひとりが自分らしいと思えて、自分がそこにいて何かやっている状態に違和感がない。
    私はここに居ていいのだ、と心底思える。
    何もしなくても安心していられる。自分のペースを乱されることがない。
    人目を意識したり緊張することもなく、集中できる。
    もはや「自分」を意識する必要がないほど気障りなものがない。
    しばらく過ごした後に、明日も頑張ろうと思う気力が充電できている。

    100%思った通りでなくても、誰にでも「心の居場所」があれば世の中は明るいだろうなあ。

    私の「心の居場所」

    私は自宅で一人きりで過ごす時間が好きだ。
    子育て中は少しずつ手が離れても、まとまった時間を好きに過ごす自由はほとんどなかった。
    細切れの自由時間は、要領の悪い私にはないと同じで、いつもバタバタしていて、集中することができなかった。
    その後は、中学校に行けなくなった長女がリビングのソファにずっといた。
    通信高校に進学してからは少し出かけるようになったけれど、結果的にティーンエイジの7年間の大半を母親と過ごした。
    そのこと自体はタイヘンなこともあったが、私が成長する大事な機会になったから、恨んだり悲しんだりはしていない。

    今たっぷりと一人でダイニングでnoteを読んだり書いたりする時間は至福の時だ。うっかりすると3時間ぐらいスマホを見入っているので要注意。
    そして、noteのおかげで、家族がいる時間も少しはシャットダウンして自分に集中することができるようになった。

    家族の誰かいればどうしても気になる。
    長らく専業主婦だった私にとって「家は職場」という意識が抜けないのだ。
    家事をすることでこの家にいる権利を得ているような感覚。
    それは違う、と解っている。
    いつも肩身の狭さを感じたり、早めに社会復帰できなかったことを後悔したり、感じなくていいものを感じてしまうのは、親世代からの価値観の刷り込みかもしれない。

    今,子ども達が家を出て家事は少なくなり、時間もたっぷり余裕ができて、ようやく安心して自分の家で自分の時間を自分のために使えるようになった。
    一人きりのリビングでnoteをしている時、まさに自分の居場所を感じる。日中限定、しかも夫が出社している間だけれど。
    「自分が自分に戻った」と思える時間は実に貴重だ。
    機嫌よく生きるための充電時間だと感じる。
    子育て中に愚痴が多かったのはこの自分時間が取れなかったからなのではないかと思っている。
    子どもが小さくて時間がなくても、不登校の子どもと暮らしていても、10分でもいいから自分のためだけに自分の時間を使って自分をかまってあげることは必要なことだと思う。

    「心の居場所」はポータル

    家から出られない長女がリビングを占拠していた頃、よく短い時間で散歩に出た。
    家着に上着をはおり、スニーカーで早歩きをする。少し遠いコンビニまで行って、自分ひとり分のお菓子を買って帰ってくる。
    大人げない憂さ晴らしなのだけれど、スッキリした。
    車で好きな音楽をかけて走ってもいいし、クローゼットでポケカラを歌ってもいいと思う。筋トレでも瞑想でもイヤフォンをつけてしまえば案外ひとりの気分になる。
    「自分の居場所」=「自分のためだけに自分の時間を使って自分をかまってあげること」にすれば、場所はひとつの所でなくていい。本の世界に没頭してもいい。オーディオやゲーム機も、今の自分に「居場所」を作ってくれる手軽なお助けアイテムになる。
    頭を柔軟にすれば、ポータルで短時間の「居場所」は作れる。緊急避難的な使い方として、1つは用意しておきたい。

    もう一つ、子どもが不登校になった後にパートの仕事を始めたが、これも私にとってはある意味「心の居場所」だった。
    ずっと外で働きたかった。17年のブランクを経てまた給料がもらえるようになった時は本当に晴れ晴れとした気分だった。
    家のごたごたは全部忘れて仕事に集中できる時間はありがたかった。
    たいしたスキルも専門性も持っていないが、ヤル気はあった。
    今も仕事をしている時間は自分らしいと思える。どうやら、人の中にいてこそ私らしさが発揮できると感じるらしい。今さら知ったけれど知れてよかった。人と関わる中で私が役に立てたかもしれないと思う経験を重ねて、そこが私の居場所になっていく。「自分を好きになれる場所」=「心の居場所」の典型だろう。

    小さい頃から、人の中にいる時の私が好きだった。
    だからこそ、学校に行くのが辛い子ども達の気持ちがなかなか理解できなくて、責めたり泣かしたり何度もぶつかった。
    人と交わる時間が苦痛であること、それが常態化した場合の神経の消耗を、想像しようともしなかった私がいた。
    優しくなかった。自分と違う人を思いやって想像してみること、これができてようやく優しさの第一歩が踏み出せるのだ。

    忘れてはいけないこと

    人の中にいる時の私が好きな私は、長い間「心の居場所」=「今いる場所」だと思っていた。
    居場所は自分で作ればいいでしょ、ぐらいの気持ちだったと思う。
    今は少し成長した私がいる。
    心の居場所を持っていない人がいて、それに苦しんでいるという現実を他人ごとにしなくなったから。
    もともと私は外交的な性格で人付き合いで苦労した覚えがないので、居場所がないとか居心地が悪いとか、深く考えたことすらなかった。
    凡人は困らないと考えない。
    所属する所に居場所を作れて当たり前、と信じ込んでいた。
    不登校もイジメも自分とは関係ないものと割り切ってしまっていた。
    この無知が、間接的にであれ当事者を苦しめるものであることを解っていなかった。

    今は、想像力を働かせ自分ごととして捉える姿勢ができた。
    もともと自分を好きでなかったり、他者からの攻撃などによって自分を好きでなくなったりしたら、生きることの根幹が揺らいでしまう。
    わずかなきっかけで「心の居場所」にバグが起これば、他者の視線は苦痛となり気力は消耗していく。動こうとしても動くことができなくなり、さらに孤立する。
    一度居場所を失えば、新たに構築するのはなかなかに難しい。
    生まれ落ちた環境によっては最初から物理的な居場所すら不安定なこともある。
    そして心の居場所の再構築にはとにかく時間がかかる。TVで保護猫と暮らす番組があるが、猫だって何ヶ月もかかって仲間や人に少しずつ慣れていくのだ。思春期の人間の子どもだったら‥道のりは長いだろう。

    周囲の誰にでもできることがある。
    もし、所属する集団に心の居場所を持たない人がいることに気づいたら、少なくとも無視せずに、心の中で「あなたもそこにいていいんだよ」とエールを送るのはどうだろう。優しい眼差しが届くかもしれない。
    どうか無知によって追い込むことがないように、心の居場所について多くの人が思いを巡らせるようになってほしい。

    今の学童の職場では、どうしても場に馴染めない子どもを見る機会も多い。
    我が子と重ねていち早く目が行く。
    慎重に近づくスタンスだが、挨拶と笑顔だけは欠かさない。指導員という立場が少しは役に立つのがうれしい。

    集団生活は疲れるものだ。
    自由に過ごしていいと言いながら、規則や時間に縛られる。
    家の代わりだからリラックスしてと言いながら、協調性を求める。
    毎日何年もこういう暮らしが続いているのに、選択権を持たない子ども達。
    一緒に怒られてあげるから少しは勝手なことしていいいよ、思いつつ
    「椅子に立ったら危ないよ」
    と声が大きい私なのだけれど。
    学校生活を一歩引いたところで眺めると、発見が多くて、子ども達お疲れさま!頑張ってるよ!と一人一人に声掛けしたくなるくらいだ。
    一人でも多くの子どもが学童も自分の居場所と思ってくれるように、縁の下の力持ちになるべくがんばろう。


    まとまりのない文章ですが、締切りなので出しちゃいます。
    乃井さん、どうぞよろしくお願いします😊












     
     
    「煮込むほどに味わい」を目指す60’s。不登校を経験したわが子2人と過ごして、世間体にも人の顔色にも振り回されない自己選択を意識するようになりました。 藤井風さん推し。俳句・ピアノ・瞑想好き。

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