
あの朝、むせた音が合図だった──摂食嚥下障害の気づき
何かおかしい──その直感がすべてを変えた
夜勤明けの、少し気の抜けた朝だった。
フロアリーダーを任されてまだ日が浅い彼は、どこか背筋を張りながら利用者の食事の様子を見て回っていた。
おかゆを前にして動かないAさん。
スプーンは手に持ったままだが、目線はどこかぼんやりしている。
「何か、おかしい」
その小さな違和感を見逃さなかったことが、命を救うことにつながった。
あれが、彼にとって摂食嚥下障害という言葉がただの知識から現場のリアルに変わった瞬間だった──。
違和感との出会い
夜勤明けのフロアに、朝の光がぼんやりと差し込んでいた。
いつものように、利用者の食事の様子を見て回る。
まだ眠気の残る足取りで、彼はひとりひとりの様子を確かめていた。
Aさんの前に立った時、不意に胸の奥がざわついた。
スプーンは持っているのに、手が止まっている。
おかゆの湯気が冷め始めているのに、口元は閉ざされたままだ。
「食欲がないだけかな」
そう自分に言い聞かせようとした瞬間、Aさんの喉元がわずかに動いた。
次の瞬間、小さくむせた音。
そして、ほんの一瞬、呼吸が止まったように見えた。
「おかしい」
その言葉が、彼の頭の中ではっきりと形を持った。
すぐさま近くにいた看護師に声をかけ、状況を共有。
医師への連絡が取られ、処置が始まった。
幸い、大事には至らなかった。
でも彼の中には、確かな実感が残った。
「これは、ただのむせじゃない」
それが、違和感との最初の出会いだった。
揺れる判断、走る本能
オレは、この介護施設で最近フロアリーダーを任されるようになったばかりの、新任フロアリーダーだ。
その朝も、いつもと同じように始まった。
早番のスタッフと一緒に朝食の準備を済ませ、介助が必要な利用者の食事介助を行う。
ぐるりとフロアを見渡しながら、薬がちゃんと飲めているかも確認して行く。
朝食の時間帯は、まだ人手が少ない。
夜勤のスタッフは仮眠を取っているとはいえ、体は疲労困憊。
集中力が切れそうになるのを奮い起こして、最後の仕事をなんとかこなしている。
夕食時と違って、朝はまだそこまで精神的には追い詰められていないから、逆に気になる人に目を向ける余裕が少しだけ残っている──そんな時間帯だった。
オレは介助を終えた人たちの食器を片づけながら、フロアを巡回していた。
そしてふと、「あれ?」と思った。
いつも
「食べるのが何より楽しみ」
だと言っていたあの人が、まだ食べ終わっていない。
というより、手が止まっている。
──そんなはずはない。
何かおかしい。
そう思って様子を見ていた時、あの「むせ」が起きた。
周囲に一気に緊張が走る。
すぐに看護師に知らせ、処置は迅速に行われた。
Aさんはすぐに部屋へ運び込まれ、看護師と医師に引き継がれた。
その場に残ったオレと早番のスタッフは、動揺する他の利用者たちに声をかけた。
「大丈夫だからね」
「後でちゃんと説明するから」
心配の声があがる中、いつも通りの日課に戻るように促す。
ただ、オレの中には残っていた。
あの時の「何かおかしい」が、確かに命を守ったかもしれないという感覚。
医療チームとの連携が生んだ「もしも」の回避
その日は、たまたま早番で来ていた看護師と、施設の嘱託医の先生が偶然にも同じ時間帯にフロアにいた。
まるで奇跡すぎる偶然だったけど、後から聞いた話では、先生は別のフロアの利用者の様子を見に来ていたところ、
「誤嚥した利用者がいる」
との報告で、急遽呼ばれたのだという。
オレは手にしていた医療用PHSで看護師を呼び出した。
それを見て、早番のスタッフもAさんの異変に気付き、すぐさま声をかけながら背中を叩いていた。
周囲もただならぬ空気に気付いて、フロア全体に緊張が走る。
看護師が駆けつけた時、オレはすぐに状況を説明し、そこからは看護師主導でAさんを部屋へ連れて行き、応急処置が始まった。
出される指示に従い、オレと早番スタッフは必要な物を取りに走り、嘱託医も呼んで処置を行った。
なんとか、命に別状はなかった。
後からAさん本人に聞いた話では、
「普通に食べていたんだけど、急に息苦しくなって、気付いたら意識がなくなっていた」
とのことだった。
看護師からは、
「窒息の時はチョークサインっていって、首元に両手を当てるしぐさをする人もいるけど、何のサインも出さずに静かに佇んでるだけのこともあるのよ」
と教えられた。

だから発見が遅れることもあるんだ、と。
オレと早番スタッフは顔を見合わせた。
確かに、そんな様子はなかった。
むしろ静かすぎて、異変とは思えなかった。
「これは……誤嚥についての勉強会を開く必要があるわね」
看護師のその言葉に、オレは深く頷いた。
「今回は偶然、先生が近くにいたからよかったけど、いなかったらどうなっていたかわからないわよ」
と言われ、冷や汗がにじむ。
朝食の時間が終わり、日勤者が出勤してくると、申し送りが始まった。
誤嚥の件が報告され、全員が驚いたものの、無事だとわかってホッとする空気が広がった。
この件はヒヤリハットとして記録することに。
でも、こういう報告を書く時って、やっぱり気持ちが沈む。
反省文のように捉えてしまうスタッフも少なくない。
だけど本来はそうじゃない。
これは事故の原因を知り、今後の予防策を考えるための「報告書」であって、誰かを責めるためのものではない。
だからオレは、しょんぼりしていた早番スタッフに伝えた。
「これは反省文じゃなくて、事故を防ぐための大事な記録だよ。誰かが責められるわけじゃないし、こうして記録することで『次』を防げるんだってこと、覚えておいて欲しい」
現場で起こる「もしも」に、どう備えるか。
始めての「連携」が生んだ、学びの時間
そんなことがあり、看護主任とオレで話し合って、摂食嚥下障害について話す機会を作ることになった。
テーマは以下の4つ:
摂食嚥下障害とは何か
誤嚥した場合の対応
チョークサインとは
そして、異変に気付いたら速やかに看護師へ連絡すること
施設全体での勉強会として行うことになり、看護師とオレの共同作業で準備が始まった。
これまで看護師と連携して何かを進めるということは、あまりなかった。
もちろん、日々のケアの中で声をかけたり、傷の処置や爪切りの依頼をしたり、関わりはある。
でも、一緒に何かを作るというのは、たぶん初めてだった。
資料づくりを進める中で、色んなことを知った。
誤嚥ってどうして起こるのか。
見逃しやすいサインはどんなものなのか。
そして、初動の大切さ。
文章をどうするか、どんなイラストなら伝わるか、看護師と相談しながら一つずつ形にしていった。
勉強会の当日。
事故が起きた当時の状況も含めてオレが話すことになった。
みんな、静かに、真剣に聞いていた。
知っていれば、助けられることがある。
そんな思いを込めて話した。
あの日の出来事が無駄にならないように。
そしてこれからの誰かを守れるように。
勉強会後に
その勉強会は好評のうちに終わった。
最近新規で入ったスタッフもいたし、こういう機会がないとわからなかったと言われた時は、やってみてよかったと思った。
事故はいつどんな時間帯で起きるか、わからない。
スタッフの少ない時間帯、たまたま目を離してしまった瞬間に、起きていることだってある。
そして勉強会の終わりに、フリータイムを設けた時、声が上がった時に多かったのが、最近の訴訟問題だった。
確かにその訴訟問題の話を聞くと、介護職員たちは萎縮してしまうのは仕方ない。
命を預かっていることは、現場に出ている全員がわかっているけど、関わっていくのは人。
人と人が関わっている以上、ミスはある。
だから『ダブルチェック』とかあるし、指さし確認もあり。
声かけをしながらチェックしたり、確認したり。
あの時、ふとおかしいと気付いた直感を信じたかいがあったな、と。
まだまだフロアリーダーとしては未熟だけど、でもこれかもリーダーとして頑張っていきたいと思った。
まとめ──「気づく力」を育てるために
介護の現場では、一人ひとりの「気づき」が、大きな事故を防ぐ力になります。
今回の出来事は、偶然の重なりに助けられた面もありましたが、それ以上に、日々現場に立つスタッフたちが
「いつもと違う」
と感じ取れる感覚を持っていたからこそ、最悪の事態を回避できたのだと思います。
そして、それを
「共有しよう」
「学びに変えよう」
とする姿勢が、現場全体の力になっていく。
勉強会を通して、事故が起こる背景や対応について理解を深めることができたことは、今後のケアにとって大きな財産になりました。
何よりも大切なのは、
「完璧であれ」
ではなく、
「気づけるようになろう」
「学び続けよう」
という姿勢です。
これからも、現場で感じた違和感や学びを仲間と共有しながら、安心できるケアを届けていきたい──そう思っています。